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『再野生化するモンスター達〜ヌトミックのコンサートについて〜』

―伏見瞬

 劇団「ヌトミック」の主宰である額田大志は、バンド「東京塩麹」のリーダーとしても知られている。ヌトミックで演劇を、東京塩麹で演奏を行う額田だが、今回はヌトミックとして「コンサート」を行うという。 
 会場に用意されたプログラムの通り、9曲が演奏された。ヌトミックの既存の作品と新作、ジョン・ケージとクリスチャン・ウォルフという現代音楽の巨匠二人の作品、それに日本の若手の音楽家の作品。これらの曲の演奏全体を通して聞くと、全てが「断片」として体験されたことに気づく。それらは、意味と文脈を剥ぎ取られた「無意味な断片」だ。
 ヌトミックの作品はスティーブ・ライヒをはじめとするミニマルミュージックの手法と、平田オリザを嚆矢とする現代口語演劇の方法論を引き継いだものであると、ひとまずいうことができるだろう。ズレを伴う反復と、同時多発会話のマリアージュ。こうした作品理解には、現代音楽と現代演劇の文脈が貼り付いている。もちろん文脈を知ることがヌトミックを理解するための手がかりとなり、より深い喜びを伴う体験を呼び起こすことにつながるのだが、一度その文脈を知ってしまうと、ライヒや平田のことを全く意識せずにヌトミックの演劇を見ることは不可能になる。ケージやウォルフの作品を鑑賞する時にも同様のことが言える。「楽音とノイズを分けるのではなく、すべての音を音楽として捉える」というコンセプト、あるいは西洋音楽の規範から抜け出すための不確定性の探求といったテーマなど、西欧音楽〜現代音楽のコンテクスト抜きで彼らの音楽を聴くことは極めて難しい。
 知的な解釈の集積を頼りに演劇や音楽に触れることは、「ポケットモンスター」においてモンスターをモンスターボールに収めることに似ている。『ポケモンの神話学』の中沢新一の言葉を借りれば、それは凶暴なモンスターを「縮減化」することだ。「サイズを小さくして、情報化の操作が加えられると、どんなものも知的なコントロールの対象物になる」と中沢はいう。モンスターボールによる捕獲が野生の怪物をコントロール可能なものに変えるように、コンテクストの理解は得体のしれないものを認識可能なものに変える。それは世界、他者、あるいは翻って自我の在り方を知るのに必要な行為だ。だが、一つの認識可能性を優先することにより、カオスから立ち現れる存在の蠢きを取り除くことにもなる。
 今回の上演は、一度特定の文脈に置かれた作品群を「再野生化」する試みだ。それは「断片化」という方法によってなされた。今までヌトミックが上演した『それからの街』『SUPERHUMAN』といった作品は短い「断片」としてアレンジされることで、戯曲が持っていた意味が漂白される。するとそこに現れるのは、言葉の持つ純粋に音的な快楽だ。「あの」と発せられた言葉が「あ、あの」に変わり、次第にそれが「あ、あ、あ、あの」と発声される。この「あ、あ、あ、」が三連譜として細かく刻まれることの快楽。あるいは、干支が繰り返し発声されることによるリズムの心地よさや、長いセリフがユニゾンで発せられるときの勢い。知的な構築からは弾かれてしまう、原始的と形容すべき音の体験がそこにはある。ウォルフの「Sticks」の演奏は、ステージに集められた枝を演者がひたすらに折っていくというおよそ無意味な行為として観客の前に現れたし、「4分33秒」はその前の演奏で息の上がった体を休めるための休憩時間のように思えた(実際演者たちは息を整えていた)。楽曲の文脈・意味よりも、目の前にある身体の動物的な運動が顕然する。
 さらに終盤の二曲、池田萠「いちご香るふんわりブッセ/うさぎのまくらクリーム金時」と長井桃子「日本の歌」の演奏は、曲そのものが断片としての要素を持ち合わせている。前者は『竹取物語』の冒頭部分を繰り返し暗唱する演者に対し、隣にいる演者がコンビニスイーツを強制的に食べさせる作品だ。一口食べ終わると同時に、食べたスイーツの商品名を発話しなくてはならず、すべてのスイーツを食べ終わるまで演奏は続く。そこでは『竹取物語』という物語テクストが「食べて咀嚼する」という動物的な身体運用によって分断される。後者においては、五人の演者が都道府県名を連呼しながら飛び跳ね続けていた。全員が違う地名を違うリズムで同時に多発するこの曲においても、それぞれの地名が持つ意味性は抜き取られ、断片化された音としての有り様だけが現前している。 
 こうした断片化によって、飼いならされたモンスターたちは野生として再度野に放たれる。そこで観察されたのは意味のない音、意味のない運動である。その無意味さをさらに徹底させたのが新曲「ネバーマインド」だ。この曲の演奏は、一定のルールのもとで演者たちが縄跳びを飛び、蹴鞠遊びを行い、左右に振られた棒の上を飛ぶという、ほとんど子供の遊びといって差し支えないものだった。だが、演奏は一定の回数を全員がこなすまで、失敗したら何度も同じことを繰り返さなくてはいけない過酷な規則の元になされる。筆者を含む多くの観客は、演奏の間ずっと笑いを漏らしていた。それは戯曲や演出によって巧みに意図された笑いではなく、無意味なルールと無意味な運動によって発生したアナーキーな笑いだ。野生の場では掟すらも意味を喪失し、剥き出しとなった掟はそれ以上の理解可能性を許さず、知識や意図や計算は全くの役立たずとなる。意味のない掟から、逃れる術はない。野生とは、自由でありながら同時に、剥き出しの規則に縛られ続ける不自由な状態でもある。「ヌトミックのコンサート」は、そうした野生の両義性を我々の前に開く試みだったのだ。