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『音楽化される演劇、演劇化される音楽』(ヌトミック『ヌトミックのコンサート』レビュー)

―灰街令

 2018年9月8日。三鷹SCOOLにて、演劇カンパニー・ヌトミック主催の額田大志が中心となって『ヌトミックのコンサート』が行われた。本論考はこの演劇とも音楽とも言い得る風変わりな上演についての批評文である。
 まず全体の所感を記すならば、『ヌトミックのコンサート』は演劇と音楽の領域を横断していながらも、あるいはだからこそ、各媒体の固有性を強く意識して構成されているように感じられるものだった。

 まず一曲目に演奏された《それからの街》について。東京藝術大学の作曲を専攻していた額田の卒業制作となった作品であるとともに、ヌトミックによる演劇版も存在している作品である。額田氏自身がスティーブ・ライヒからの影響を公言しているようにこの作品もミニマルな反復によって構成されており、3人の奏者は、時間軸に沿って各セリフが書き込まれた楽譜≒台本を演奏する。
「あの、駅からこの道をまっすぐ行くとそんなには、大体400メートル、5分くらい……」
 このようなひと続きの何気ない言葉は、はじめはすぐに途中で途切れ、またやり直され、時に断片化され、時に執拗に繰り返され、時に奏者ごとにズレて、あるいは重なって発話される。たしかにライヒ的にも思われる作品であるが、ここで注目すべきはむしろライヒとの差異だろう。
 《それからの街》において、その素材がいわゆる楽音ではなく日常言語の「発話」であることに注意しよう。たしかにこれらの言葉は反復され、時にズレて重ね合わされる。しかし、言葉はリズム的に音素や音節レベルに分解されるわけではなく、発話の重ねあわせで言葉の分節の変化が多く起きるというわけではない。《それからの街》で目指されていることは、初期ライヒの「フェイズ」シリーズのような音のズレによる知覚上の連節の変化を作ることでないことがわかるだろう。しかしそれは中期以降のライヒの表現主義的ミニマリズム、あるいはジョルジュ・アペルギス《Recitation》における言語自体へのシステマティックなアプローチとも少々異なっている。
 では《それからの街》において生じている作品体験とはどのような質のものだろうか?
 それは、何気ない言葉が不意の中断や反復によって「音楽化」されて発話されることにより生じる、事件めいた緊張である。音楽と言語の違いが一般的に反復の有無に求められることを考えれば、この緊張感は本質的なものと言えるだろう。額田氏の音楽・演劇に多く見られる、クレッシェンド/デクリッシェンドもこのような非日常へ至る道を描きだすものに他ならない。それは日常的な発話という、非楽音かつ極めてありふれたマテリアルに基づいているが故に、それが「音楽化」した時に逆説的に可能となるサスペンスフルな時間体験である。

 あるいはこの上演で演奏された多くの作品では、ミニマルミュージック的な機械的プロセスに反して、というよりも機械的なプロセスに基づく運動によって逆説的に浮かび上がる形で、「身体性」が強く焦点化されていることに注目しよう。
 例えば同じく額田のパフォーマンス作品《ネバーマインド》では、縄跳びを飛ぶ、足をくぐらせながらボールをバウンドさせるなどの運動を、複数人が規定数失敗することなく行うことが求められ、間違える度に一人が「ネバーマインド」と叫ぶ(そしてこの叫びは失敗するごとに回数が増加していく)。ここではミニマルミュージック的なプロセス主義がコミカルにパフォーマンスとして演出されており、指示をプレーヤーがうまく遂行できない――これは一般的な音楽の演奏ではあってはならないことだ――ということが可笑しさの元となっている。繰り返すたびにプレーヤーは疲れていき、ますます目標を達成することが困難になるのだ。
 この曲のすぐあとに演奏されたジョン・ケージ《4:33》で、息が上がった奏者たちが必死に呼吸する音響が場内にこだましていたことは、《ネバーマインド》から《4:33》の流れが「身体的偶発性」とその「結果としての音」に焦点を合わせて構成されていたことを物語っている。
 「身体性」に関連して、額田作品以外の上演作品にも目を向けてみよう。
 池田萠の《いちご香るふんわりブッセ/うさぎのまくらクリーム金時》は、一人のプレーヤーが竹取物語を朗読をしているところへもう一人がスイーツを運び、強制的に食べさせるという内容のパフォーマンス作品である。様々なスイーツが運ばれるたびに朗読は途切れ、食べたスイーツの名前を読み上げなくてはならなくなる。結果として「野山にまじりて竹を取りつつ、ステラおばさんのクッキー2枚使ひけり」のような怪文が生成されるわけだが、より重要なのはスイーツを全て食べ終わるまでこのプロセスが終わらないということだ。中盤以降は文の生成もほとんど予測可能のものとなり、極度に間延びした時間の中、スイーツの過剰摂取により朗読の声が疲労していく様子を聴くこととなる。
 もしもこの作品が最後まで音楽的に高度な構成上の展開を続けたならば、このようなあり方で朗読に焦点が当たることはなかっただろう。ここでもまた、コンセプチュアルなプロセスを実行しながらもそのプロセスの直接的な現象ではなく、その結果として偶発的に生じる「身体性」、そしてそこから偶発的に生じる「演劇化」された「音声」が重要となっているのだ。

 『ヌトミックのコンサート』では「発話」と「身体」という原-演劇的なマテリアルに焦点を当てながらミニマルな音楽・パフォーマンスが構成されていた。演劇と音楽を共存させるのではなく、「演劇化された音楽」、「音楽化された演劇」といった双方を衝突させるような仕方で。
 やはりこれは「演劇」カンパニー・ヌトミックの「コンサート」だったのだ。