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世界に複数を受胎させるレッスン(ヌトミック『SUPERHUMAN』レビュー)

―野村崇明

 ヌトミックの作品の特徴を一言で言い表せば、「音楽のような演劇」になるだろう。リズミカルな台詞回しに、ミニマルミュージックを思わせるテンポの良い掛け合い。あるいは役者というよりも、セリフの演奏者と呼びたくなるような、動きを徹底的に統御された演者たち。近作『SUPERHUMAN』はミニマルミュージックよりもジューク/フットワーク染みた構成であるという点において、過去作とは一味違ったテイストの作品であるが、やはり「音楽のような演劇」という意味では、ヌトミックらしい作品でもあるだろう。だが、そのようなわかりやすい形式面への言及は、同時に至極シンプルかつ本質的な問いを等閑に付してしまう。すなわち、なぜこの作品は音楽的でなければならないのか、そしてタイトルのSUPERHUMANとは何か、という問いだ。

 『SUPERHUMAN』は、一見すると無関係に見えるシーンの組み合わせによって構成されている。内容に繋がりがない各シーンは、「今・ここ」を突き抜けて別の場所に行くというテーマを共有している。それは会場である北千住BUoYの説明をしているかと思えば、突然壁を突き抜けてオーストラリアや宇宙へと話題が展開していき、また再び役者が跳ね回る舞台上へと話が戻っていくシーンや、役者たちが動物の動きを模したり怪獣を模したりすることで、原始時代や戦国時代、はたまたフィクショナルな世界にまで観客の想像力を運んで行くシーンに顕著であろう。だが彼らは同時に、「今・ここ」に拘束されていることを強く自覚してもいる。

 深澤しほは唐突に「今・ここ」のリアルな悩みを語りだすし、その愚痴は山崎皓司の「おい!」という「今・ここ」に響く唐突な大声によって遮られてしまう。役者たちは目的を共有しており、シーンの演出のために協力し合うことはあるが、しかし多くの会話はディスコミュニケーションや争いという形をとってしまうのだ。リズミカルなセリフや音楽のような構成は、互いを完全には理解し合えない、言うなれば根本的に異なるメロディラインをもった彼らを、一つのアンサンブルとして纏め上げ、同じ「今・ここ」に共存させていると言えるだろう。

 するとヌトミックの戦略は、役者たちのお祭り騒ぎによって観客に「今・ここ」を忘却させ、現在を超出した非日常を与える、というものではないことになる。むしろ、役者たちのみならず観客の「今・ここ」まで、スマートフォンを使用することの奨励や役者による語りかけによって、積極的に再確認させている。そのことが示すのは、観客の中にはもちろん、四人の役者たち??超人的なアクロバットを見せるAokidや強靭な肉体を持つ山崎皓司、異常な長ゼリフを高速で叩きつける深澤しほ、演者としての高い能力を利用して多くの場面転換を任される原田つむぎ??の中にも、「今・ここ」を超出したSUPERHUMANはいないということだ。

 私たちは等しく「今・ここ」を超えていないし、それを目指した先に何があるのかすら知ることができない。すると『SUPERHUMAN』の不可能な試みは、単なる徒労に過ぎないのだろうか。確かに、役者たちの語るセリフを真に受けてしまえばそういうことになるだろう。だが、リズミカルなセリフがその音楽性ゆえに幾度も繰り返され、繰り返されるたびにその意味が微妙に変化していく様を見るとき、私たちは確かに、「今・ここ」の文脈に属するはずのセリフが、過去の繰り返しを想起させ、未来にありうるかもしれない繰り返しを想定させるのを感じるはずだ。音楽的であるがゆえに可能になる反復は、「今・ここ」にあるセリフの背後に、他なる時間を接ぎ木するのだ。それは同時に、「今・ここ」という単数の時空間に、複数の時空間を受胎させることでもあるだろう。

 もちろん、それは厳密には「今・ここ」を超えているとは言えない。だが、「今・ここ」を捨ててオーストラリアや宇宙、あるいは過去や未来といった時間に飛ぶことは、故郷を捨てて海へと飛び出すも、たどり着いた島に上陸することが許されず、泳ぎ続けるしかなくなってしまうというあの滑稽なシーンと、全く同じことではないだろうか。私たちHUMANにとってちょうどいいのは同じ滑稽さでも、何度やっても一向に上手くなる気配のない大縄跳びのシーンのもつ、拙いレッスンを積み重ねるときの滑稽さではないだろうか。SUPERHUMANとはすなわち、観客たちと役者たちに同時に課せられた「今・ここ」という単数を、単数であるがままに複数化する方法を学ぶ、そんなレッスンに与えられたタイトルであるのだ。