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「これは演劇ではない」記者会見レポート

―渋革まろん

 「これは演劇ではない」――だから記者会見は演劇だ。そんな主張を暗に伺わせるイベントが、さる7月16日に開催された。「これは演劇ではない」の記者会見。この変則的で波乱に富んだ記者会見のレポートをお届けする。

■記者会見オープニングパフォーマンス
 この記事を読んでいる皆様には先刻ご承知の通り、「これは演劇ではない」は、2019年の年明けにアゴラ小劇場で開幕するフェスティバルのタイトル。「本日はご多忙のなかありがとうございます」。綾門による開会の挨拶が済むと、まじめな記者会見がはじまる……というわけにはいかなかった。もちろん「これは記者会見ではない」のである? ともかく、概要説明に入る前に、aokidと額田大志によるオープニングパフォーマンス。
 観客の目の前には、「体操」「サッカー」「音楽」と書かれたA型看板が置かれている。まさか……と思うが、その「まさか」である。客席のうしろでもみ合う二人が舞台上に走り込んでくると、「これは演劇じゃな〜い!」と叫んだ。ヤバみを感じる。そしてやはり、aokidオリジナルの体操がはじまった。とまどいながらも、促されて立ち上がる観客たち。aokidの聞いてるだけで人を油断させるような脱力声のファシリテーションで、なんとなしに肩の力も抜けた?
 と思った矢先に、額田とaokidが「あっち向いてほい」。それが「演劇だと思うチーム」「演劇だと思わないチーム」に分かれて、ついにサッカーがはじまる。といっても会場はそれほど広くない。客席のうしろの猫の額ほどのスペースで繰り広げられる丸めた紙を使ったサッカーは、とてもバカバカしくて自然に笑えてくる。
 それから、観客が客席にもどると、額田の伴奏で、Aokidが踊る。さらに歌う。ミサ曲のように荘厳な伴奏なのだけれども、歌う内容はというと「これは演劇ではない、あれも演劇ではない。じゃあ何が演劇なの? カゲヤマくん」で、答えられないカゲヤマ気象台というコミカルなもの。なのに一度聞くと、不思議と耳を離れないのだからファンタスティック。「これは演劇ではない」の型にはまらない破天荒なムーブメントを予感させる、フェスティバルの生誕を言祝ぐにふさわしい序曲となった。

■コンセプト説明
 フェスティバルの概要説明は、打って変わって、キッチリまじめなAokidが司会を務める。登壇するのは、カゲヤマ気象台、綾門優希(キュイ)、額田大志(ヌトミック)の三名。ちなみに個々の作品についても紹介されたが省略する。今後の続報をまたれよ。
 さて、まずは綾門から、「これは演劇ではない」のコンセプトが説明される。タイトルの着想源は、パナヒ監督の『これは映画ではない』。イラン政府に映画製作を禁止された状況で撮影された『これは映画ではない』は、「映画とはなにか?」を問いただす内容。対して、綾門もよく「これは戯曲ではない」と言われるようで、じゃあ観客の思い描く「演劇」ってなんだ? と問い返すような皮肉が、タイトルに込められているという。
 次に、カゲヤマ気象台の口から「これは演劇ではない」に対する期待が率直に語られる。カゲヤマは、自分と同世代の演劇が、これまでの軸では判断できないし、マッピングも出来ないと感じていた。けれど、その「浮いている」感じは無視されている。その違和感を、「これは演劇ではない」の言葉で暴き出せるんじゃないか。そう考えたという。
 最後に、額田大志から、開催の経緯の説明。「これは演劇ではない」は、2010年代以後の演劇シーンを紹介するフェスティバル。参考にしているのは、ちょうど10年前に開催された「キレなかった14才りたーんず」や、2011年に東京芸術劇場で開催された芸劇eyes番外編「20年安泰。」。けれども、その後、若手のショーケースフェスティバルが、大きな規模で開催されていない。だったら、自分たちで開催してしまおうとして、「これは演劇ではない」に結実した。
 以上が彼らから語られたフェスティバルのコンセプトになる。ぼくの受けた印象を簡単に述べるなら、彼らはこれまでの演劇に、というよりも、自分たちの実践にこれまでの言葉では語れない、何かしらの違和感を抱いている点で共通しているように見えた。カゲヤマ気象台が言うように、「これは演劇ではない」のタイトルには、その違和感がストレートに示されているのかもしれない。ここに垣間見える時代の断層をしっかりと掴み取ることが、フェスティバルの重要な役割のようにも思える。いずれにせよ、新進気鋭の演劇人による「新しい時代」を予感させるトマドイとトキメキが、ぼくには感じられたのだった。

■質疑応答あるいは『フェスティバルの記者会見』
 さて、オープニングのポップなバカバカしさと、概要説明のシリアスな問題意識が、いい塩梅の好対照をなしていて、非常にキャッチーな記者会見だった。で終わるときれいなのだけれども、問題はここから。来場者に配られたステートメントやプレスリリースを含む資料のなかに、不穏なものが混じっていたことを、ぼくは伝えておかなければならない。『フェスティバルの記者会見』と題された「戯曲」がそこには……。
 司会のAokidが「ではですね、質疑応答のほうに移りたいと思います」と言うと、雑誌ペネトラの升本が、オフィスマウンテン・新聞家・モメラスの作品についても教えてほしいと質問した。会場に来ていた松村と村社が簡単に答える。次に、「これまでのフェスティバルとの違いを教えてください」と雑誌エクリオの伊藤が聞く。すると額田は「違いですか。うん。そうですね。開催する年が違います」と間の抜けた答えをドヤ顔で返した。客席から笑い声。このあたりからちょっとおかしな空気感が漂いはじめる。言い忘れていたが、ここまでカゲヤマ気象台は白塗りである。
 もうおわかりのように、質疑応答からの記者会見は、綾門がプロットを組んだ戯曲に沿って進行するフィクションである。記者たちも、綾門が通っていた、ゲンロン 佐々木敦「批評再生塾」のメンバーから選ばれている(イトウモ・升本・野村・伏見・渋革)。戯曲の概要を転載しておこう。

1 アーティストたち なんか適当なこという
2 記者たち 適当さを看過せずにがんがん質問する
3 アーティストたちと記者たち 超モメる
4 アーティストたちと記者たちのうちの誰か 超モメているうちに何か重要なことに気づいてハッ!として、それについて率直に述べる
5 アーティストたちと記者たちのうちの誰か以外 深く納得する

 とはいっても、台詞が用意されているわけではない。その意味では、普通の記者会見と変わらないが、それを演劇とすることで、普通の記者会見ではなされないような、つまりは「モメてしまう」ようなガチな状況を作ることが狙われた。少々長くなるが、そこでなされた登壇者と記者のやりとりを抜粋して紹介する。

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――これから毎年続けるか?
そういう予定はない(綾門)。

――「これは演劇ではない」を劇場でやるのはなぜ?
劇場ではない場所で上演したら、「そりゃ演劇じゃないよね」になるから。こまばアゴラ劇場は東京の代表的な小劇場のひとつ。あえて、そこでやることに意義がある(綾門)。

――このフェスティバルのあとで、どういうものを残していきたいか?
「キレなかった14才りたーんず」は、実際に見ていない後代にも記憶されている。それは世代を鮮明に打ち出せたから。それができれば、打ち上げ花火で終わらないと考えている。また、記録として残していくつもりだ(綾門)。

――六団体の共通点を教えてほしい。
「演劇っぽくない」と言われたことがありそうな人を集めた(カゲヤマ気象台)。
むしろ作風の共通点がないように、バラバラであるようにチョイスした(綾門)。

――演劇っぽさとは?
劇場では、質の高い美術、身体の強度というハイファイなものが求められる。そういうものではないローファイなものが必要だと感じている。単純なハイファイの軸では語れないものが今回の6作品にはある(カゲヤマ気象台)。
何が演劇かと言われてもわからない。もともと演劇と思って作っていなかった。まだわからないので答えを見つけたい(額田)。
『不眠普及』が「せんだい短編戯曲賞」で大賞を受賞した選考会で「戯曲かどうか」だけが話題になって、内容に言及されないことに疑問を感じた。例えば長大な独り言の羅列を書くイェリネクが2004年にノーベル文学賞をとっている。世界的な動向として、それが戯曲かどうかの話は終わっている。でも日本ではそうでない。そのことについてハッキリと意思表明をしたい(綾門)。

――「これは演劇ではない」と名付けることに実質的な意味があるのか?
このタイトルは、観客のためのもの。観客のなかでタイトルを考える行為そのものが、意義を持っている(綾門)。

――パナヒ監督の場合は切迫した状況で『映画ではない』を撮った。それと並列して語れるのか?
緊迫感というよりは、枠組みをしっかりと提示することが大切だと思っている(綾門)。

――「これは演劇ではない」のフェスで、どういう表現がすくい上げられるか?
この6団体の演劇は、見方がまずわからないという問題がある。そこに対する一つの答えを提示できると思っている(カゲヤマ気象台)。
バラバラで良いと言ったことの補足だが、例えば早稲田文学の女性号が出版された時に、現在の女性の問題を扱う作品が多い中で、古谷田奈月は『無限の玄』というホモ・ソーシャルを扱った作品を発表した。それも一つの女性について考えるありかた。そういう多様性を確保するものとして「これは演劇ではない」を捉えている(綾門)。

――結局、全体を貫くコンセプトはあるのか?
バラバラさと最低限の一貫性のバランスが重要だと考えている(綾門)。
一貫したものを通すのなら一人のプロデューサーが決めたほうがいい。しかし、複数名でやっていくことに意味がある。複数人が並行してやっていくやり方に、可能性があると思っている(カゲヤマ気象台)。

――「記者会見」を演劇にする意図はなにか?
記者会見が行われてましたという情報をあとから知るだけでなく、一般の方も、一時間半の記者会見をまるごと体験できる機会を作りたいと思った(綾門)。

――このフェスは、なんでも「演劇だと言っていい」というメッセージを発する負の側面を持つのでは?
言っていいのでは? (額田)
意外と、このフェスティバルを見ても、普通に「演劇じゃん」と思う人が多いと思う。このペットボトルが「演劇だ」と言うわけではない(カゲヤマ気象台)。
特に負の側面と捉えていない。演劇と認知されない状況の方が根強い。このタイトルを冠することで、これが演劇である、戯曲であるということをもっと自由に発信して、それが信じられることが重要だ(綾門)

――「これは演劇である/ない」という判断の枠組み自体を壊していかないと、このフェスに意味はないのでは?
それは合ってる。だから作品を見て、それを判断してほしい(額田・綾門・カゲヤマ気象台)。

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 このように、丁々発止のやりとりがなされたわけである。おもに「これは演劇ではない」というフェスティバルのタイトルに集中した質問に、登壇者は丁寧に答えていった。最後に、観客のなかから「この記者会見は演劇として成立していなのでは?」という質問が出た。それに対する額田の返答は、「つまりこれは演劇ではないということですね」。  オチがついたのかどうかわからないが、とにもかくにも波乱含みの幕開けとなったわけで、彼らが共通して持つであろう「バラバラであることの強さ」が、このフェスティバルでどのように発揮されるのか。要注目である。


記事:渋革まろん
1987年北海道生まれ。批評/舞台演出/LOCUST編集部。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学ー私たちはいかにしてよく群れることができるか」にてゲンロン×佐々木敦 批評再生塾3期総代(最優秀賞)。座・高円寺劇場創造アカデミー舞台演出コース修了後に無用な身ぶりからなる「トマソンのマツリ」を構想する活動をはじめる。