これは演劇ではないブログ|これは演劇ではない | This is not the Theater.
これは演劇ではない俳優ブログ 10《2019.1.24》

西山真来(青年団)(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

「これは演劇ではない」内「幸福な島の誕生」も千秋楽を迎え、フェスも今日のAokidさんのアフターイベントを残すのみです。(21日昼現在)

とても多くのことを感じ考えたフェスだったので覚え書き。

アゴラ劇場は見慣れた劇場だったけど、コンクリートと木と鉄骨でできてるんだな、劇空間である前に物体なんだな、と今回初めて気づきました。皆さん素材として扱ってたから。

あとアゴラで演劇をするときは大抵、一階の楽屋から裏階段を足音をたてないよう静かに上がって小扉から楽屋袖に入ってましたが、建物の構造的には一階からの梯子で入るかエレベーターの方が便利だなと思いました。 なのに今まで忍び足で小扉から入って「嘘」を作りに集まって…て、変な行為だなーって思いました。
その変な行為のこと愛してるなーと思うけど、ちゃんと愛するためには「ここにあるのはただの物体でしかない(予めドラマが用意されてるわけではない)」ということを知っておく必要があるなと思いました。 いろんな価値観の現場があるけれど「これは演劇ではない」通過俳優として、それは基準にしたいです。

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これは演劇ではないブログ 23《2018.12.18》

語の反響(演劇論)「生けるパン」

―村社祐太朗

 「まるでパンが生きているみたいだ」では、パンは生きていない。それはこうして書かれ、また読まれるという事態に晒されるテキストの顛末だ。このテキストを書いた人か、あるいはこう言った人がテキストと読み手のあいだにどうしても挟まって、真実味があるかどうかを問わず〈経験〉を追体験してしまうからだ。生きているみたいだと思いながらも、死んでいるパンを見つめいている人が想像される。もっとわかりやすく言えば、「毛虫みたいなパン」は生きていない。つまり〈毛虫ではなくてパンである〉という裏返しがこのテキストにすでに張り付いている。では大胆に、「パンが走った」ならどうだろう。こうなると「パン」は、焼くとカリカリになる小麦が主原料のあの食べ物のパンではなくなってしまいそうになる。例えば、パンという名前をつけられた犬や猫が駆けていく姿がぼうっと浮かび上がる。ただもっと前提を手際よく組み立てて、車輪の外径をできる限り小さくした3cm角の平台車の上に台車が隠れるほどには大きいパンを乗せて、さっと机の上を走らせてもいい。それなら確かに「パンが走った」と思う人がいて当然であると思う。ただこうなっては気になるのは、扇動的なやつだな、というわたしの胸に積もる“感じ”のことだ。不自然だ、どうせそのパンは生きてなどいないんだろう、と言いたくなる。

 ここで話しているのは書かれ読まれるテキストのことでもある。ただ一方でそのひとつの経過として、口にされ聴かれる「声」の話をしているという側面もある。これは先に出した「〈経験〉を追体験してしまう」という嫌な話のことだが、テキストが音声化の慣習に脅かされているということが、その理由の一つに挙げられるかもしれない。それはもちろん秘めやかに脳内で起こっている馴致のことも指している。音声化といってもだからそれは「日常」のことだとまでは主張しない。ただ音声化を経由してわたしたちは、声を出した当人と、その内容(テキスト)とを一致させて考えるのにあまりにも慣れている。もちろんわざわざ「テキスト」と示してまで、言ったことの前段階(声になる前はなんだったか)に目を留めることなどまずないのだが、ただそうと言わずに「書かれたことをそのまま読んだだけだよ」といった状況を想像してみても起きていることは同じで、一致がもっと気づきにくいところで起きているだけだ。その書かれたことを〈書いた人〉が、「ふーんあなたらしくないと思った」と答える聞き手と、書かれたことをそのまま読んだ人とのあいだで秘めやかに創造され、それはそのテキストと一致させられる。そうやって「語り手」が否応なく必要とされる。もちろん「〈経験〉を追体験してしまう」を避けるためにテキストを書くこともできるだろう。演劇を実践する身として嫌気が差している「〈経験〉を追体験してしまう」問題というのは、この「語り手」到来問題においても、かなりわたしたちと似た姿をしている「語り手」に限定した話である。

 少し話がずれたので、またパンを生かすためのアイデア出しに戻りたい。それでは「パンがみんな運ばれてきた」ではどうだろうか。「みんな」を「全員」という意味で受け取ろうとすると、そうするとやはり、扇動的なやつだな、という感想がつきまとう。わかりやすく言えばそれは不遜な擬人化が用いられているように聞こえるからだ。パンを生かすためにそんな無理をしなくても、という感じ。ただ「みんな」を「全部(根こそぎ)」という意味だと受け取るとどうだろうか。こうなるとわたしには、パンが生きているように感じられる。どういうことか、このまま結びに移ろう。不遜な擬人法としてではなく、きちんと準備してきた役目を果たすようにして「みんな」が活動しているように感じられる。つまりそれはテキストと同時に想像されてしまう「語り手」の実直さでもある。ここにいとどまる限りは誰もパンを生かそうなどとは考えてはいない。このことが重要だ。ただ一方で、聞こえの中には「パンがみんな(全員)…」が反響する。これは語り手の実直さと別に、「全部(根こそぎ)」という意味を取りそこねた(という実感さえ聞き手にはないわけだが)聞き手の中に、確かにただ一つの聞こえとして反響する〈生けるパン〉の報告である。そしてこの産み落としは、その時には誰も見つけることのできなかった失敗の上に確かに居直っている、また事実ではないだろうか。

これは演劇ではないブログ 13《2018.10.6》

語の反響(演劇論)「がらのわるいのりもの」

―村社祐太朗

 「乗り物」という語のことをちょっとだけ長く考えてみよう。ただし語のことを考えるのに、その語ひとつを頑と見つめていても進みが悪い。語のことをよく知るには、語を組み合わせやセンテンスの中に放り込んでやると話がはやい。

 例えば「乗り物一覧」という組み合わせにいたったとき、乗り物という語はどんな意味をもつだろうか。「乗り物」それひとつだったときと比べてみると、明らかに語にはっきりとした色味がついていると感じられないだろうか。「乗り物一覧」のとき、乗り物はたとえば、幼児向けのことばとして機能し始める。よもや「乗り物、はそういえば最近あまり使わなかった」といった感想さえ滲んではこないだろうか。ブルドーザーとかクレーン車とかいまとなっては特殊車両という語で説明され、昔のような感興は微塵も催さないいわゆる「はたらくくるま」のことを「乗り物」という言葉で示すこの語と語の距離に、ある種のノスタルジーこそ湧いてくる。

 ただここで、語の後景に「車両一覧」という言葉を並べてみることもできる。そしてそれはもちろん、幼児向けという機能とはなんら関係がない。恐らく「車両一覧」は教習所で手渡されるテキストに紛れている語である。ただもしかすると、「乗り物一覧」と「車両一覧」はわたしたちの現実において、(その版のサイズや雰囲気は違えど)ほとんど同じイメージを指しているかもしれない。「乗り物一覧」ということばの下には色とりどりのはたらくくるまや普通車両、市場を走り回るプロトタイプのセグウェイのようなあれ、そしてセグウェイ等がランダムに配されたイラストで紹介されているだろう。そして一方で「車両一覧」の下には、車高や車幅がmmで記載されるはたらくくるまや普通車両のイラストが、きちんと横一列になってモノクロでプリントされている。ただそこにはそれぞれ法的に必要な免許の種類が併記されていて、またセグウェイの類もない。このように指し示す現実はある点では一致していて、ただ別の点では異なっている。重要なのは、車両と乗り物という類語を語の組み合わせにおいて比較するだけで、ディテールに目をやってやっと峻別できるほど似た現実が二つ見えてくるということだ。そしてそれは言い換えれば、こんな些末な語に到来する現実の量、あるいは湧出のたくましさには驚いた、ということになるかもしれない。

 では、「公共の乗り物」はどうか。こうなると何故か乗り物にはもう幼児向けの機能はほとんど残っていないように感じられる。この組み合わせであれば今もわたしたちはよく使っているし、「乗り物一覧」のときにあった小さな違和感のようなものがない。そして前項に翻ってみれば、「車両」に代えたから「〜一覧」は幼児向けでなくなった、ということではないのかもしれないという可能性もたち現れる。わたしたちはどういった道筋で、幼児向けという機能を「乗り物」から受け取っているのか、そんな疑問も残る。

 最後に「がらの悪い乗り物」ということばを紹介したい。これはいったいどういったことばか。どういった、というのは、これがどんな意味を持つ語か、ということである。言い換えれば、どんな現実を指し示す(引き受ける)語か、ということである。

 もしハーレーダビットソンや、シャコタンがされた古いGT-Rのことを言いたいなら、「がらの悪いバイク」や「がらの悪い車」で事が足りるように思う。ここでわざわざ「乗り物」と言うからには、複数の「がらの悪い」某かをまとめて指し示したい思いがあるというわけだ。種明かしをすると、わたしは「がらの悪い乗り物」を、まとめサイトという環境において想像した。NAVERまとめのページタイトルとしての「がらの悪い乗り物」。本当にそんなページがあるのかどうかは知らないが、現実にこのような場を据えると、「がらの悪い乗り物」にあって「乗り物」が担っていた根無し草の機能〈がらの悪い某かを複数束ねて言い表す〉に、根が生えたように思う。

 しかし「がらの悪い乗り物」という語がもつ意味は本当にそれだけだろうか、と疑問は残る。わたしは一辺倒に考えてみることでしか深く潜れなかった。別の溝に潜水して、この語の別の輝きを見つけた方にはぜひその実地をご報告いただきたい。例えば「乗り物」がここでも幼児向けの機能を担うと想像してみることは容易にできよう。ただそうすると、『カーズ』に出てくる悪役(そんなキャラクターがいるかどうかは知らないが)を指して、映画に熱中していない大人がへらへら冗談を言う様が浮かぶ。「がらのわるいのりもの」と。

これは演劇ではないブログ 05《2018.8.18》

語の反響(演劇論の序)

―村社祐太朗

 この新盆に、実家には親(ちか)しいいくらかの親戚が集まった。わたしは車で15分のところにあるくら寿司に前日の夜のうちに電話を入れ、計10人前の寿司を注文した。人気のないものばかりが選り残らないように、たまごとか数を多くは必要としないネタの含まれるセットは「2人前」と量を抑え、末端まで食べがいのある‘まぐろづくし’のような高価なセットをこそ「4人前」などと多めに注文した。これは親戚がいくらか介する場に合わせてくら寿司を注文する手練れに、自身が相成っていることの証左でもあった。

 とこの前置きはさほど重要ではない。ただ、これからいくらか不用意に報告する祖母の耳の聞こえの悪さについて、がやがやと騒がしいこの宴会がひとつ祖母にとって不利な環境だったということを、少し鮮やかに想像してもらえれば十分である。祖母はここ数年で急に耳を悪くした。以前から良性のしこりが左耳の中にできて病院に通っていたが、数年前に医者に手術による切除を提案された頃からまた極端に聞こえが悪くなった。それまではじりじり少しずつ耳鳴りがひどくなるといったような話をしていたが、それが何かの閾値を超えたらしく、その耳鳴りをいつ頃からか「滝の音」と表現するようになった。また手術は希望から行わないことにして、代わり、自分は耳が悪いということをいつしか受け入れるようになっていた。

 わたしは近頃この、生まれてまだ日の短い祖母の耳の〈聞こえの悪さ〉とよく向き合うことがある。というのも祖母にとっても未だ異物に変わりない〈聞こえの悪さ〉は、祖母が耳が悪くなる以前に実践していた人の話の聞き方、言葉の端々への気の巡らせ方をいまも同じようにし通そうとするのを遮るようにして、顕わになるからである。少し突飛な表現ではあるが、このとき〈聞こえの悪さ〉は、ある空間のようにわたしに意識される。祖母は聞かなくなった(聞こえなくなった)のではなく、〈聞こえの悪さ〉の中でなんとか聞こうとしているように感じるからだ。そしてまた〈聞こえの悪さ〉の中では、もともと対面する人の言葉や身ぶりがもっていた〈聞こえ〉がよもや歪に“反響”して、とんでもない〈聞こえ〉として祖母に受け取られるようなことがあるからだ。まさに「悪さ(=いたずら)」が起きる場所のようにも思える。ここでひとつ好例を挙げる。

 宴会が一段落して各々が家内で一泊の支度をしていたころ、一人でいる祖母の部屋の脇を通り過ぎる際にわたしが「(徒歩30 秒ほどにある)スーパーに行くけど何かある?」と聞いた。祖母が順当に「今行ってきたところだよ」と笑ったので、わたしも小さく笑い返して外に出た。騒がしい空間が退いたあとでは円滑に話ができたと思った矢先、スーパーから帰ってくると一騒動起きていた。わたしが家を出た直後に祖母の目覚ましが誤作動してジリジリ鳴ったらしい。そこで祖母は何を思ったかそれが目覚ましの音だとは思わず、わたしが祖母の聞こえの悪さをからかって「これがきこえるか」と何か異様な音をかき鳴らしているものだと思ったというのだ。聞くと誰もいないフロアで「聞こえるよ」と、仮想する身を潜めたわたしに向けて何度もしたり顔をして言い放ったらしいから良く出来ている。こんな挿話を持ち出すと、普段のわたしの行いさえ疑われそうだが、もちろん以前に一度でもこんなかたちで祖母の耳をからかったことなどない。

 これはまさに〈聞こえ〉から“未遂のいたずら”が変奏されたという意味で、〈聞こえの悪さ〉と(パラフレーズでもあるが)言える出来事だった。ただ一点これを演劇論として真剣に書いているがために強調すると、ここで〈聞こえ〉を持する語として示したいのは目覚ましのジリジリではなく、わたしが口にした「スーパーに行くけど何かある?」や、小さな笑い返しの方である。この2つの言動が本来持っていたおよそ「文字通り」の〈聞こえ〉が、祖母の〈聞こえの悪さ〉の中で歪に反響し、例えば「いたずらの前触れ」や「その先が想定されている何らかのポーズ」といった〈聞こえ〉として受け取られてしまったのだろう。またもちろんもう一歩踏み込むと「あえて真面目にやりとりすることでその後のいたずらの質を高める」という〈聞こえ〉になっていた可能性もある。そしてこの三つ目の〈聞こえ〉を想像した時に、では元々の言動が持していたとされる「文字通り」という〈聞こえ〉は、この「あえて真面目に…」と実際どんな違いがあるのだろうかと疑問が湧く。つまり言い換えれば、仮に〈聞こえの悪さ〉という空間を挟まずに「スーパーに行くけど何かある?」が交わされるのであれば、「文字通り」と「あえて真面目に…」は確実に峻別できるはず、という保障はどこにあるのだろうか。

 上記の「言動が本来持っていた」という箇所に下線を引いたのは、この言動に付帯する〈聞こえ〉の所在に疑義を呈したいからである。「本来持っていた」とあえて書いたが、これはわたしが信用できるような説明ではない。言動には確かに想定される〈聞こえ〉が伴い、それがおよそ他者への伝播をうまくこなすからコミュニケーションがまかり通るわけだが、けれど〈聞こえ〉は恐らくもっと未開な、芳醇なものを携えているのではないか。そしてそれは物理的に聞こえに難がある、というこの祖母の事例にうまく身を潜めているようで、実はそうではないのではないかとわたしは考える。つまり耳が悪いことがこの〈聞こえの悪さ(=いたずら)〉が起こった唯一の原因ではなく、他のいくつかの要素がもみ合って、〈聞こえ〉がもともと持している未開の一画が、ただ余分に顕わになったのではないかと。なにかその大きな図体が、単に身を潜めるポーズを演じていただけではないかと。

 場を宴会の最中に戻し、もうひとつ例を挙げて演劇論の序としたい。義理の叔父はモトクロスが趣味で、年に数回時間耐久のレースに臨んでいる。この夏この猛暑にも5時間耐久のレースに参戦したらしく、その話を楽しげにしていた。叔母が追って「なんか点滴みたいな管が家にあってびっくりした」と言ったのが皆気になった。話をきくとそれは夏場のレースに使用する水筒で、運転しながら水分を補給できるように口元まで管を延ばして身につけるものらしい。そしてこの「点滴みたい」という表現が皆にうけていたのに乗じてわたしは、「入院しながら運転している、みたいなことか」と言った。恐縮ながらこれがまたうけたわけだが、重要なのは祖母もこれをしっかり聞き分け、皆と一緒に笑っていたという点である。言ってみればこの冗談は少し歪なかたちをしていた。「入院している」という表現は、笑いに欠かせない精度の一端を担う“的を得る”のとは逆に、一見「点滴みたいな管」を形式的に膨らませ過ぎたことで的を外してしまっているようにも思える。ただ状況は少し複雑で、この宴会の場が、去年の末に他界した祖父を迎える新盆にあったということがこの冗談の成り立ちに影響していたといえる。というのもここにいた面々は、祖父が入院中にその「管」を身に這わせていたことを見て知っていたからだ。つまり「入院」と「管」はもちろん元々繋がりがあるが、この団欒においてはその繋がりが一層強固だった。このことが冗談をぎりぎりで成立させていたといえる。

 結びになるが、この2つ目の事例において〈聞こえの悪さ〉の中に入力された〈聞こえ〉はある程度想定どおりに反響したという点について、少し緩慢に思考したい。上記における「入院」という言葉の突飛さは、耳の悪さに不利に働くものではあったように思う。しかし結果的に〈聞こえ〉は、「入院」と「管」が強く結びつく状況に下支えされて補完されてしまったように思う。ここでひとつ思うのは、入力された(と想像される)〈聞こえ〉と、実際に祖母が受け取った〈聞こえ〉は、そのシルエットさえも、似ているが別のものではないかということだ。欠損と補填という想像できる限りでは2つの処置が、〈聞こえ〉を形作る別々の要素からなされたように思うのだ。そしてこのどちらをも〈聞こえの悪さ〉の中で起きた“反響”と、名付けてみてこの序を閉じることとしたい。自他のどちらにも属さない場所で起こる語の反響の鏡面として、現在の(会話の)文脈と、過去の(視覚)経験を束ねてみたところで。