これは演劇ではないブログ|これは演劇ではない | This is not the Theater.
これは演劇ではない俳優ブログ 10《2019.1.24》

西山真来(青年団)(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

「これは演劇ではない」内「幸福な島の誕生」も千秋楽を迎え、フェスも今日のAokidさんのアフターイベントを残すのみです。(21日昼現在)

とても多くのことを感じ考えたフェスだったので覚え書き。

アゴラ劇場は見慣れた劇場だったけど、コンクリートと木と鉄骨でできてるんだな、劇空間である前に物体なんだな、と今回初めて気づきました。皆さん素材として扱ってたから。

あとアゴラで演劇をするときは大抵、一階の楽屋から裏階段を足音をたてないよう静かに上がって小扉から楽屋袖に入ってましたが、建物の構造的には一階からの梯子で入るかエレベーターの方が便利だなと思いました。 なのに今まで忍び足で小扉から入って「嘘」を作りに集まって…て、変な行為だなーって思いました。
その変な行為のこと愛してるなーと思うけど、ちゃんと愛するためには「ここにあるのはただの物体でしかない(予めドラマが用意されてるわけではない)」ということを知っておく必要があるなと思いました。 いろんな価値観の現場があるけれど「これは演劇ではない」通過俳優として、それは基準にしたいです。

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これは演劇ではないブログ 26《2019.1.7》

夢見る妊婦、母性の捏造

―松村翔子

現在、妊娠して丸5ヶ月。妊娠すると眠りが浅くなるため夢をたくさん見るようになる。イギリスでは妊婦が見る夢を「プレグナンシー・ドリーム」と呼ぶらしい。肉体的にも精神的にも変化の大きい時期だからか、プレグナンシー・ドリームは悪夢や不可解な内容のものが多い。

これは先日見た夢の話。

昼間、家で掃除機をかけている。フローリングの埃と髪の毛を夢中で吸い取っている。インターホンが鳴るが掃除機の音でしばらく気づかない。聞き取れた時にはもう既にチャイムを何度か鳴らした後らしかった。来訪者はドアをノックして呼びかける。
「すみません。すみませーん。」
慌ててモニターの映像を確認すると、白いパーカーを着た浅黒い肌の外国人男性が映っている。年齢は20代中盤くらい。
「どちら様でしょうか。」
インターホンのマイクを通して聞くと、
「こんにちは。僕はあなたの息子です。」
と、流暢な日本語で外国人の青年は答える。

はて。
こんな大きな子、産んだ覚えないな。
それに、ちっとも私に似ていないし。

「僕はブラジル人ですが、あなたの息子です。」
黙っていると重ねて丁寧に話しかけてくる。
「お母さん、覚えていませんか。」
ブラジル人の青年はとても誠実そうに見えた。

戸惑いつつ私は質問する。
「あなたのお名前は。」
「カルロです。」

そうか、カルロか。

なぜか私は無理やり納得してドアを開ける。全然知らない赤の他人なのに。でも息子だって言うから、ドアを開けてあげなきゃ可哀想だと思って。

身に覚えのない息子を部屋に招き入れ、何となく母親らしい振る舞いをしてみる。
「カルロ、お腹が空いたんじゃない。」
「うん、空いたよ。」
「オムライスを作ろうか。」
「オムライスは嫌いだよ。」
「そうか、カルロはオムライスが嫌いだったか。」
「そうだよ、嫌いだよ。」
ぎこちなかった。だって知らない人だから。どう考えても不自然なやり取りだったが、こうやって人は徐々に母親らしさを身につけていくんだろうと、間違った肝の据わり方で私はカルロに焼きそばを作ることにする。

「お母さん、ヤクルトがないよ。」
冷蔵庫を覗きながらカルロが言う。

ピルクルならたくさん入ってるのに。どうしてピルクルを飲んでくれないのだろう。味は確かにヤクルトの方がコクがあって美味しいかもしれないけど、ピルクルの方が経済的に優しいからできればピルクルを飲んでもらいたいのに。私は少しカルロを煩わしく思う。子供って面倒臭いなーと、ピーラーで人参の皮を剥きながら軽い溜め息をついたあたりで目が覚めたのだった。

寝室から出ると、夫がちょうどピルクルを飲んでいる最中で、その経済的に優しい光景に安心した。彼は「飲む?」と言いながら冷蔵庫からピルクルを取り出そうとしてくれたが、朝は少しつわりが重いので遠慮した。

母親になることへの戸惑いはまだあるが、お腹の子は順調に育っている様子。

母性は急に生まれるものではない。徐々に培っていくものだと思った朝だった。

これは演劇ではないブログ 16《2018.11.3》

「恐怖」について。

―松村翔子

ここ最近、ずっと寝込んでいました。
怖い夢を見た日の日記です。

***

昼間。
天気が良い。洗濯したいがベッドから出られない。近頃ほとんど布団の中で一日を過ごしている。五、六日間は外出していない。吐き気と腹痛にやられているせいだ。

苦しみを紛らわすためになぜかアマゾンプライムで『セックス・アンド・ザ・シティ』を見る。やるべきことはたくさんあるがこの身体的苦痛から逃れるため、切羽詰まっている私は『セックス・アンド・ザ・シティ』を無我夢中で見る。主人公たちと同年代だが彼女らに全く共感できないところがいい。スポ根めいたセックスへの打ち込み具合は尊敬に値する。その体力が今すぐ欲しいと切実に思う。生命力があるというのは突き抜けて馬鹿になることなのかもしれない。

夕方。
気付いたら寝ていた。iPhone画面ではサマンサがセックスをしている。サマンサはフェラチオをし過ぎる。喉の奥がヒリヒリする。風邪を引いたのかもしれない。水を飲む。マスクをして再びベッドに横になる。近所から赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。その声と腫れ上がる喉の鋭い痛みが一体となって右のこめかみをぶん殴ってくる。

夜中。
鼻をかむ。鼻詰まりがひどい。苦し紛れにメンソレータムを鼻の下に塗りたくる。鼻の下がピリピリしてすぐに後悔する。なんか不穏な夜だなと思う。電気を付けたまま眠りにつく。

夢。
夜中の高速道路。
車の運転席にいる。
背もたれを倒して横になっている。
どこかのサービスエリアの駐車場。
座席は狭くて寝苦しい。
車窓から夜空を見上げる。
等間隔に整列したオレンジ色の街灯が不気味に首をもたげているのが見える。
助手席側の窓に目をやると隣に駐車しているトラックの運転手が缶コーヒーを飲んでいる。
鼠色の薄汚いダウンジャケットを着た中年の男。
男がドリンクホルダーに缶を置く。
煙草に火を点ける。
無精髭に包まれた頰の皮がたるんでおり、ブルドッグのような輪郭をしているのが分かる。
暗くてよく見えないが、白目部分は黄色く濁っている気がする。
狭い座席で体勢を整えようと脚を組み替えると、爪先が車のキーにぶつかりカチャリと音を立てた。
犬顔の男が振り向く。
「これはまずい」と直感的に思う。
こういうネガティブな予感というのは大体当たる。
当たる、というより、ネガティブな予感が生まれた時にはすでにその状況に呑まれていて、取り返しがつかなくなっている。
犬男と目が合う。私はすぐに逸らす。
トラックの扉が開き、男がこちらにやってくるのが分かる。
身構えることしかできない。
助手席の窓が15センチほど開いていることに気付くが、それとほとんど同時に犬男はその隙間から素早く片腕を差し込んで私の左手首を掴む。
私は手首に触れられるのが嫌いだ。
嫌いというより生理的に受け付けない。
幼いときに骨折を経験してるからか手首を握られると胃の周辺がざわざわして何とも言えない不快感に襲われる。
犬男は私の左手首をぐいぐい引っ張る。
恐怖のあまり声が出ない。
振り絞って出た声は「あうあうあー」みたいな呻き声だった。

朝。
左手首の不快感に悶えながら、「あうあうあー」を発しているところで目が覚める。私は実際に結構な音量で「あうあうあー」と呻いており、右頬が大きく痙攣していた。

怖い夢から目覚めて現実を振り返ると、何かしら大きなストレスや精神的なプレッシャーを抱えていることに気づく。身体的に衰弱すると妙に気が小さくなり思考が生真面目に傾いて良くない。

先日観た映画『ノクターナル・アニマルズ』のことを思い出す。夜はああいう凶暴で残酷な想像が豊かになる。なんとなく、不気味な小説を書いた男の精神状態が理解できる気がした。自ら恐怖に直面しようとする心理(対抗恐怖と呼ぶらしい)は、生き延びようとする生存本能の裏返しだと思う。そういうことにしておくと、悪夢を見た朝も多少は清々しく迎えることができる。

***

犬男の恐怖から逃れた後、約一週間ぶりに家を出て、スーパーで買い物をしました。今はもうだいぶ元気です。

これは演劇ではないブログ 07《2018.9.1》

『"これは演劇ではない" という呪いの言葉』

―松村翔子

モメラスの松村翔子です。
フェスティバルへの意気込みを記します。

演劇フェスティバル『これは演劇ではない』の誘いを受けたとき、正直私はこのタイトルの強さ、というか硬さに二の足を踏みました。作品を発表するにあたり、随分ハードルが高くなるなと思ったんです。「これは演劇ではない」と言った時に「では演劇とは何ですか」を突きつけられることになるわけですが、ちょっとそれには答えてしまいたくない、聞こえないふりして呑気に演劇やっていたい、という思いがありました。その答えを出すには今の私には早すぎるし、あとたぶん、「シーンの流れなんか知らないもん素朴に演劇やるんだもん」っていう "文脈カマトト" 的な自分をちょっと大事にしまっている部分があったからかと思います。

「あなたにとって演劇とは何ですか」くらいの柔らかさがあれば自分なりに回答を用意するのですが、「これは演劇ではない」の言葉には「これが演劇です」が内包されていて、更にそこには「これ以外は演劇とは呼べません」とでも言うような、頑ななニュアンスがあります。
「本人が "演劇" と言ったら "演劇" なので、それを否定するのはナンセンス」というのが多様性を大事にするゆるっとした今っぽい流れかと思うし、参加してる人達もわりとそういう感じなのかなと思いきや、あれ? 全然違った! ゆるくなかった! もしかして新しい演劇を定義しようとしてるんじゃないかこの人たちは! めっちゃ怖! となりました。 だから今、震えています。

それぞれ、その人の中に何となく定義される「演劇らしさ」というのがあると思うんですけど、それは千差万別で世代やジャンルによって本当にバラバラです。私は欲張りなところがあるので、そのバラバラの視点を全部押さえたいと思ってしまいます。バラバラな全てを一緒に舞台上にあげるのが一番リアリティがあると思っています。だから結果、散漫なものがいつも仕上がるんですがその統一感のなさを私は大事にしています。いつまでも猥雑なままでいようとしているために、「これは演劇ではない」という言葉が訪れたとき、「もっと洗練しなさい」と言われているようで苦しい気持ちになりました。今はもう呪いの言葉のように響いています。

これは完全に、私が勝手にがんじがらめになっているだけですが。

でもやります。
なぜか?
わかりません。
メンツでしょうか。
新しい時代を築いていくであろう演劇人に囲まれたら、また新しい視点を取り込むことできるんじゃないかっていう、下心です。
もうカマトトぶってはいられません。
頑張ります。