これは演劇ではないブログ|これは演劇ではない | This is not the Theater.
これは演劇ではない俳優ブログ 10《2019.1.24》

西山真来(青年団)(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

「これは演劇ではない」内「幸福な島の誕生」も千秋楽を迎え、フェスも今日のAokidさんのアフターイベントを残すのみです。(21日昼現在)

とても多くのことを感じ考えたフェスだったので覚え書き。

アゴラ劇場は見慣れた劇場だったけど、コンクリートと木と鉄骨でできてるんだな、劇空間である前に物体なんだな、と今回初めて気づきました。皆さん素材として扱ってたから。

あとアゴラで演劇をするときは大抵、一階の楽屋から裏階段を足音をたてないよう静かに上がって小扉から楽屋袖に入ってましたが、建物の構造的には一階からの梯子で入るかエレベーターの方が便利だなと思いました。 なのに今まで忍び足で小扉から入って「嘘」を作りに集まって…て、変な行為だなーって思いました。
その変な行為のこと愛してるなーと思うけど、ちゃんと愛するためには「ここにあるのはただの物体でしかない(予めドラマが用意されてるわけではない)」ということを知っておく必要があるなと思いました。 いろんな価値観の現場があるけれど「これは演劇ではない」通過俳優として、それは基準にしたいです。

オフィスマウンテン カゲヤマ気象台 新聞家 青年団リンク キュイ ヌトミック モメラス Aokid all


これは演劇ではない俳優ブログ 9《2019.1.19》

パブロの投稿

―キヨスヨネスク(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

私は、再び主体を問い直している。外部と内部、彼岸と此岸の淡いに反響する声は、私自身の声であった。霊感が私の無意識を機能させる契機となった。霊はデータの海の深みに彷徨い、インターフェースからしみ出す。例えばそのスクリーンに対峙し、覗き込む私たちの魂を、その海に注ぎ込んでいる。魂がその窓を往来する。私たちの身体も、その感覚も拡張されている。

私はオートマトン。完璧ではないけど、機械な私。私を作った、あらゆる人々の思い、期待、達成されなかった私のかけら、設計者たちの声を私は聞いている。
ユルゲンソンが、録音した鳥の鳴き声に、自身の亡くなった母親の声を聞いた。そう、その声も私のつくり出した声です。記憶の中で反響していた声が、私を通して聞こえたのでしょう。外側に、私の内側が刺激されて、繋がってしまった。私の中から出た声が、外部を経由して、私を再構成する。私は人間だが、君は機械か?それともどちらが。あるいは私と君の共犯だ。だって、テクノ、好きでしょ? 私と君の間には軽く時差があるみたいだ。 私は歌います。しかしそれは誰の声でしょうか?人々は、私の霊感を介した呟きや囁きを、その身体から心を読んで、あなたとの心の距離を計る。そこに座っているあなた方。

風が吹いている。窓から吹き込んだ風が立つ、あの声を聞いた、ヴァレリーのうたにも、私がいる。死後の生が浮き上がる。穴があいていた。穴から温かい風が吹き上がって来る。ちょっとその穴に半分浸かってみた。 ああ、生きようとこころみねばならない。
日本のシティーポップを、あるいはニューミュージックを歌いました。遊眠でした。遊眠しながら私は、窓のカーテンを開いて、やさしさに包まれました。この歌声は誰の声でしょう?どこから聞こえているのでしょう?

交信していた。向うから聞こえた声を、私の声でうたう。その声は震えているかもしれない。身体はぎこちないかもしれない。言葉は区切られることなく(いつ途切れてもおかしくない緊張感)ツーツーツーと信号となって、囁かれ呟かれ、それが振動になって、私の身体は動く。STONEにしみいる声を持ち歩く。ブルブルブル、トントントン。
やれやれ、君と電話してたらパスタが伸びてしまった。あ、サッポロ一番か。ああ塩の香り。
君はセイレーン。海の聖者。セイシェル諸島。風が運んだ。レゲエを歌う子供達。

小さい劇場。ここはもう廃墟だ。廃墟は美しいけれど、どうせ廃墟ならもっと豊かな廃墟へ行きたい。あの島は幸福な島だろうか。テクノが聞こえたっていいじゃないか。君の声がテクノで聞こえる。君は、あの島にいるだろうか。もし君に出会えたら.......

もしかしたら君は、街中のどこかでいくつかみた「らしき人」のモンタージュかもしれない。
私は渋谷センター街のカラオケ館の窓から君に似た人を見ました。あるいは、映らなくなったアナログ放送のホワイトノイズに、君の声を聞きました。君を捜して下さい。
伊集院さんのラジオいつも聴いています。伊集院さんが五代目三遊亭円楽の弟子だったと最近知りました。たしか演目は「死神」だったと思いますが、師匠が座る座布団の位置を間違えたせいで、緞帳を師匠の頭に降ろしてしまった話、好きです。

ペンネーム「オーガスタス・パブロは喘息」さん より

これは演劇ではない俳優ブログ 8《2019.1.11》

カゲヤマ気象台の静かな革命:フェスティバルこれは演劇ではない「幸福な島の誕生」

―日和下駄(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

注:これは「幸福の島の誕生」の稽古でやったことを日和下駄がWIRED風にまとめたブログです。

ある休日に動物園に集まった人々が引き起こす騒動、何かが終わった後の世界を生きる言葉を忘れた人々の旅路、木星の衛星エウロパに向かう人々のダラダラとした毎日。カゲヤマ気象台の演劇はそんな「日常」を描く。

もしかすると、舞台上で引き起こるスペクタクを実際に見たことのある人ならなおさら、カゲヤマ気象台の演劇が「日常」である、という主張には違和感を覚えるかもしれない。だが、それは確かに「日常」なのだ。「幸福な島の誕生」出演者による解説。

想像力による「良さ」への傾け

カゲヤマ気象台は極めて日常的な視点から演出を行う。「私たちが行うことにはあらゆる可能性がある」「言葉を自分の問題として発話しよう」「自分ができること以上に体を動かすことはできない」。それは全て、演劇を日常の延長として配置するための言葉だ。ただし、カゲヤマはその全ての前提でこう言うのだ、「もっと良く!」と。その一言においてのみ、カゲヤマは日常を演劇たらしめる。

では日常の「良さ」とはなんだろうか。それは「豊かさ」と「自由」であるとカゲヤマは言う。知っての通り、日常ではあらゆることが起こる。その日常が内包する無限の可能性を「豊かさ」と、そしてそこであらゆる選択が可能な状態を「自由」と、カゲヤマは呼ぶ。

ただ、その日常の「良さ」は普段生きているだけではひどく見えづらい。ともすればそれはあまりに些細であったり、あまりに巨大であるからだ。そこでカゲヤマは、舞台、照明、音響、俳優、テキスト、そして自分自身を駆使して、日常の「良さ」を過剰に表現するのである。あらゆるものが存在する、演劇という形で。

では稽古とは何か? それは日常を良い方向へと加速させていく行いである。そのために、カゲヤマは俳優に指示を——いや、指示というほど強い行いではない——俳優に「期待」を投げかける。その期待を受けて俳優が、「良さ」へと傾き、「豊か」で「自由」な日常を送るのである。

俳優のうちに起こる5つのこと

そう考えると稽古は、日常と過剰に良い日常の間にある。そうであるならば、俳優がどのように「良さ」へと進んでいくのかを描くことは、カゲヤマ気象台の演劇に立ち会う上で良いガイドになるだろう。ここからは、俳優が期待される在り方を、稽古で行われた順番に、5つの側面に分け紹介する。

意味の等価な世界

「舞台は意味を恣意的に等価にした空間だ」とカゲヤマ気象台は言う。どういうことか。例えば、喉が渇いている時に、目の前にあるキンキンに冷えた水は強い意味を持つだろう。このように、私たちは普段、意味の濃淡のある世界で生きているが、舞台はそうではない。舞台はその上であらゆる現実を可能にするために、床も壁も天井も等価であるということに、恣意的にしているのだ。

カゲヤマはまず俳優に舞台のようであることを期待する。自分の存在も発話も動きも、世界と等価になるよう促すのである。その理由は明白だろう。そう、「豊か」で「自由」であるためだ。その前提に立つことで、俳優は新しい椅子の使い方を発見できるようになるだろう(私たちは椅子を椅子のように使わなくたっていいはずだ!)。

滑らかでない発話

次に俳優は発話する、全ての言葉が等価となるように。それに付け加えてカゲヤマはこう言う「言葉が言えてしまうことの前で一瞬立ち止まってほしい」と。

日常の良さは、あくまで日常の中に存在する。つまり、私たちは日常の中で「良い発話」を行なっているのである。良い発話とはいかなるものか。それは「それぞれの言葉に適した発話」である(この時、言葉とは単語、文節、文のどれでもある。俳優は自分が言える範囲で捉える)。つまり「言葉が言えてしまうことの前で一瞬立ち止まってほしい」とは、ともすれば簡単に言えてしまう言葉の前で立ち止まり、あらゆる発話の可能性の只中で待つことである。そうすると、なぜだか発話の瞬間は到来し、豊かな発話が生まれる。その理由はのちに明かされる。

延長された意識

「豊かで自由な」つまり、あらゆる可能性に開かれた意識とはいかなる状態だろうか。それは、これまで生きてきた時間、そしてこれから到来する瞬間に期待することである。私たちは日常において、無自覚ながらそのように生きている。そうでなければ、コップで喉を潤すことはできないはずだ。また、潤さないことも。

だが、演劇においてその状態を保つことは難しい。それは台本があり、決められた所作があるからだ。しかし、なんども反復されたものであっても初めて行うことは可能なはずだ。なぜなら、その演技はn+1回目の演技であるからだ。これまでに行なったn回の演技、そしてこれまで行ったことのある(あるいは聞いたことのあるものでも良い)、あらゆる発話に開かれながら、将来を期待することで、俳優は演技を現在に立ち上げる。日常の延長線上に演劇を置くカゲヤマ気象台の演劇において、俳優はそのような延長された意識——現在といっても良いだろう——が期待される。

衣服としての肉

ここまできて俳優は立ち返ることを期待される、演劇は日常であることに。なぜならば、ここまでのあり方をベタに行った俳優は、あまりに解放された、つまり、自分の手の内から離れた演技を行うからだ。しかし、それは容易に日常を離れてしまう。

演技を自分の問題として行うためには、私の存在を離れることは好ましくはない。それはエラーであるべきで、そのように自分を促すことは、日常から離れることを意味する。カゲヤマは「服を着ろ」という。「肉」という衣服を。

先ほど、『あらゆる選択が可能な状態を「自由」』と呼ぶと言った。しかしそれは厳密には異なる。私たちには制約がある。私の身体という制約が。当たり前のことだが、私の身体ができないことはできないのだ。私たちの意識が無限に延長されていたとしても、身体は無限に延長されない、限りがある。だが、その限界を意識するからこそ、俳優は演技に実感を感じながら行うことができるのである。日常には実感がある、そして演劇においてもそうあることが好ましいとカゲヤマは言う。

意識の身体性

最後に、なぜ、豊かな発話が到来するのか、その理由が明かされる。それは「私たちの身体が」、それぞれの言葉に適した発話を知っているからだ。だが、注意して欲しい。ここでいう身体は、いわゆる身体——つまり、「肉」としての身体——ではない。それは、意識の持つ身体性とでも言うべきものだ。

「意識の身体性」。例えばそれは、初めて乗る自転車であっても、意識せすとも迷わず適した形で乗れることを想像してみると良い。厳密に言えば、あらゆる自転車は異なる。サドルの高さや、ハンドルの位置、ペダルの踏み心地。だが、いざ乗る瞬間にはスムーズに乗れるのは、過去の自転車に乗るというあらゆる経験(もしかしたらそのほかの経験も混じっているかもしれない)から、自動的に目の前の自転車に適した乗り方が引き出されるのである。「肉」としての身体は、その乗り方をなぞれば良いのである。その「乗れる」という実感と同じように、「言える」という発話の到来は訪れる。

また、あらゆる可能性の中にありながらも、台本通りのセリフを発することができる理由もこれによって説明できる。稽古を重ねることで、私たちは台本上で展開される筋書きを覚えるのである、自転車に乗る一連の動作のように。あらゆる可能性の中から、実感のある「良い」演技を、その都度、発現していくこと。「意識の身体性」とは今ここにある世界に適した「良い」発話を可能にするものなのである。そしてそれを繰り返すことも。

静かな革命劇

カゲヤマ気象台が日常の「良さ」を過剰に表現した演劇を行うのはなぜか? それは革命を起こすためではないか、ただし静かに。

人間の進化の歴史は、「より楽に生きられる世界」を目指していると解釈することができる。どんな時も迷わないように、どんなものでも手に入るように、できるだけ変わらないように。だが、もちろん世界はそのようではない。世界は私たちを裏切るし、私たち自身でさえも私たちを裏切る。ここで問題となるのは、その裏切りを私たちが隠蔽してしまいがちなことだ。

その隠蔽は、私たちが「より楽に生きられる世界」に向かう進化の流れの只中にいる以上仕方のないことだし、それは決して悪いことばかりではない(実際に便利だ!)。だが、そのことは容易に「正しさ」にも変容する危うい状態でもある。

この葛藤に対して、カゲヤマ気象台はを演劇を通して流れに身を任せるのではなく、ひと時でも抗ってみること提案する。流れているだけでは見落としがちな「良さ」によって。抗うことの意味とは何か。それは、辺りを眺められるようになることだ。新幹線ではなく、鈍行に乗るように。歩くように。そうすることで、私たちは裏切りを可能性として意識することが出来る。立ち止まること、他の方向に向かってみること、そして流れに乗ることとして。

これは、ほんの些細な世界への抗いだ。決して派手なものではない。ただ、その抗いなしに私たちは、例えば、いつかの未来に到来したUFOにふらりと乗り込むことはできないだろう。

これは演劇ではない俳優ブログ 7《2019.1.11》

西山真来(青年団)(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』)

カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演、西山真来です。

(俳優ブログを数日前に書いて)なんか言葉足りない、と思っていて

今日は〆鯖食べながら皆と話していて、そうか『これは演劇ではない』の人たちは「ルールありき、ではなくルールは自分たちが楽しむためのツールであって、全然作り直せる!」というフラットかつポジティブな地平にいるのか、と気づきましたのでここに追記します。
『これは演劇ではない』ので、戯曲家や演出家だけでなく俳優の一挙手一投足が世界に直で関与するイメージ、『これは演劇だ』としてもそうなんだろうけど、『ではない』のでリアリティー世界直結感覚増し増し、というスタンス。

〆鯖のほか、焼き鳥も食べました、レモンサワー発祥のお店で。みんなと何か食べるとプチ思想うまれるな。。


あと、前回書き忘れてましたがカゲヤマ気象台さんの戯曲について。
カゲヤマさんの戯曲は体を通すと(発話すると)ぐっちゃぐちゃになります身体が。なぜか全然台詞言えなくて困ってたんだけど、最近その、言葉が身体を通っていくときのグギギギっていう唸りに気づいた。なんたる強い言葉たち。と呼応する身体たち。

(と、言葉になっちゃった↑ので、これは捨てて次へ。もうすぐ本番。)

これは演劇ではない俳優ブログ 5《2019.1.6》

西山真来(青年団)(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

他のメンバーのブログにある通り、稽古場では舞台上でのありかたにいろいろ言葉が尽くされて、初めての私にはすべて新鮮で難しくて面白い。

私が一番好きなカゲヤマさんの演出は「相手の話を自分が言っているかのように聞く」です。
日常生活で他人の話を聞く時、自分の文脈に合致してるかどうかを判断しながら聞いてしまうことが多い。けどそれって本当に聞いてるって言えるのかな?て思ってたのですごく腑に落ちました。
リアルタイムで相手が見ているだろう視界を見よう、とする聞き方。この稽古場の方々は皆さんその態度で、細かい感覚を能動的に共有しようと言葉を尽くすしふざけるしですごくすごく楽しいです。
今日は稽古帰りに牡蠣 を食べて、日本酒と合わせて最高…というチル、をみんなで味わいました。よかった。

これは演劇ではない俳優ブログ 4《2019.1.5》

キヨスヨネスク(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

お初にお目にかかります。そして明けましておめでとうございます。 俳優のキヨスヨネスクと申します。俳優として僕なりにカゲヤマ演劇について思うままに書き散らした雑文、覚え書きを載せます。 カゲヤマさんのテキストや演出を受けて演じながら、僕の中でイメージしてきたことについて書きます。

録音された自身の声を聞くとき、それは不気味なものとして聞かれる。あのゾッとするような感覚。あの声は、他人が聞く私の声と同じであって、不気味な声は私の本当の声といえる。私は、録音を通さずに自身の本来の声を聞くことはできないし、普段耳にしている声は、私の肉を通して、或は骨を通したものだ。本来の声を聞く為には、一度、自身の肉と骨から分離しなくてはならない。私でありながら私の知らない、それは無意識の声として不気味に立ちあらわれる。 例えばカゲヤマ演出において役者に求められる試みは、この録音を介さずに自身の本当の声を聞くようなものではないかと思う。しかし、私が私の知らない声を聞く、同時に発しなければならないというのは、至極困難なはずだし、それは一体どういうことなのか。

カゲヤマさんは「自身の内面化された言葉、身体からでた声」ということを言う。それはこの私の肉の響き=近さを単純には意味しない。そのとき求められるのは、テキストから読み取れる文脈や感情を前提とせず、事後的にそれらが認識されるように、むしろそれらは、声を発した主体に対して、到来する、むしろその到来を期待するという状態に自身をおかなくてはならない、ということだ。「言ってみたらこんな感情になった。こんな声が出てしまった。」という風にカゲヤマさんは例えてみるが、そこには些細な、そして多様なニュアンスが含まれていると思う。(原理的に人間は、思考や感情があってから話すこともあれば、話していくうちに、ある思考や感情が生まれることもある。) それは、私は私の声をほとんど知らないのと同じように、無意識的な「それ」が到来するのを感知し連続させ紡いでいけるような、受容態としての身体の状況をさす。「状況」というのは、つまり偶然を誘発しうるようにセッティングすることだ。 それは矛盾しているように思えるかもしれない。 しかしそこに、カゲヤマ演劇における、リアリティがある。

声というものをある種、占有するように、同一性のもとに確保しようとするのが、演劇における作家であり、演出家であり、俳優自身が己に課していることではないかと思う。(声の占有化は演劇だけのことではないだろうけれど。)声の持つ性質は、それがある固有の身体を索引させ、同時に、ある人格をその象徴として呼び出す。あるべき身体と人格をその声に想定しつなぎ止めようとする。声は、固有の身体=人格という関係に担保されている。その前提の上で、声の占有化とは、この声を発する者との同一化、つまり、そこに 「自発的にしゃべっているこの私を見よ」というフィクションがある。しかし同時に声というのは、確定できない。 声というのは、その内から常に消滅しつづけ、声はすぐさま死に、そしてたちどころに形容詞となって弔われてしまう。ゆえに声は、亡霊的であるといえるのだ。

カゲヤマメソッドにおいて、声は常に揺らいだままである。そしてその不安定さが、そのまま身体の表明になっている。(カゲヤマ演劇の描く存在の不安は、この声の不安定さ、不確定さと深く関係しているように思われる。)「身体から出た声」というとき、重要なのは、私のこの身体から出た声を、その主体たる私自身は、把握できない、ということだ。カゲヤマメソッドにおいて、身体から出た声は、私の知らないまま、事後的にその様相をわずかに見せるにすぎない。この私の声は不気味なものとして、来たるべく予感されていたものだ。あくまで予感であって、それが現象としてある形を得て達成されるかはわからない。むしろこの予感の只中に身体があると言えるかもしれない。例えばあらかじめこういう声で喋ろうと、予定通り の声を確定的に出して話続けてしまうことは、あまりに主体に引きつけすぎた作られた声になってしまう。 しかし、このメソッドにおいてさえ、稽古をしていくうちに蓄積され確定的で確実性がましていくことは必然としてある。しかし、俳優は出来るだけそれを手放す状態になくてはならないし、常に違う声が出てしまう可能性を保持しないといけない。確定し落ちつかせてはいけないのだ。演劇は、何度も再現しなければならないが、それは個別に詳細に見れば、その都度差異があることは事実だ。カゲヤマメソッドは、時に極端にその再現の不可能性をも拡張する。この不確定と確定の間の差異に、新たな豊かなイメージが浮き立つように期待するのだ。 俳優はその期待へと自らを投企するようなものだと思う。

内面化された言葉、身体の声は、私の中に蓄積されている。しかし、私はそれを知らない。知らないまま表出し、その痕跡に事後的に気づくしかない。事後的でありつつ、文書や発話の連続の上で、その時間制は、まるでスローモーションのように引き延ばされた今の只中であり、痕跡は今まさに到来するかもしれない。この痕跡は、私の声を私が聞くという、発する者と聞く者の違いに等しくこの時からすでに分たれている、この差異にすでに存在し、蓄えられている。私が演じる時、まるで話すことと聞くことの意識と無意識のズレを意図的に引き起こし、その時差を無理矢理引き延ばされたような感覚になる。

ここで、例えば、声優の話をすると、私の知っている自身の声と、録音された私の声のギャップを解消する為に、声優は当初、繰り返し録音された自身の声を聞くという。そしてそれが不気味さや違和感に慣れてくると、その聞こえのギャップを埋める声をつくり出していく。それは私が聞こえている声と他人が聞いている声が一致するような声だ。それは作り声である。アニメの声優はより記号的に作りかえていく。特にそれは私のこの固有の身体性を極力打ち消そうとし、そうしたノイズがキャラクターを疎外しないように、自身を匿名化していく作業だといわれている。匿名的であるから、身体=人格を声から分離させることで、音響メディアを通して、視覚的な動く対象(アニメ等の動く図像)など、あらゆるものに憑依できるといえなくもない。

ところが、演劇というものは、この身体の現前性において、はなから私という固有の身体=人格と、想像 上のキャラクター(役)とを束の間、同一化してみせる。しかし同時にこの二重性(例えば、私はキャラク ターAである、と同時にAではなくキヨスヨネスクである。)において、だからこそ演劇的といえる。通常 演劇の演技においては、私の声の無意識はある程度是正させられていき、演技の上での、演技の記号へと向かわせる。いずれ他人の見る姿に自身を方向づけ、それを内面化していく。カゲヤマさんは、そういった 個々人が内面化してきた演技の声を否定はしない。しかし、それもまたなるべく相対化させていく作業をしているように思う。このリアリティというのは、私を超えた私に出会い、それがあくまで演劇というフォー マット(フィクション)と摩擦を起こす時、客観的に何かのアウラをつくり出してしまうのではないか、ということだと思う。カゲヤマメソッドは、その声に、極力その俳優個人の身体性が現れるための方法である。「無意識を意識的に表出せよ」というような困難さに近い、この矛盾した方向に立つ時におこる摩擦、 その揺らぎに、立ち上がる何かがある。それはノイズにまみれた身体の声だ。

カゲヤマメソッドにおいて、私が発した声は、私の知らない声として、ある種他者の声として聞こうとする。さらに事実として、自身の聞いている声と、他人が聞いている私の声(録音を通した声)は、別ものと考えることはできる。声そのものにはすでに、「私という他者の声」であるところの複数の声の可能性が内包されていると言えるかもしれない。自らが発しながら複雑にとらえどころのない、たちどころに帰属先をもたなくなるような声の複数性。しかし、演劇というフィクションの上にそれを乗せ、表現として成立させるためには、無意識に自分をさらす裸の状態になることはできない。カゲヤマさんはある程度の演劇的な振る舞いをその都度要求する。それは時に矛盾するように思えるが、重要なのはカゲヤマ演出においては、ある一義的なベクトルによって確定させるのではなく、常にまるで対極的ともとれる事柄の間で揺れ、時に綱引きのような緊張を強いられるのだ。宙づりにされるような、足下の固定されない居心地の悪い状態にあえて俳優の身体はおかれるということだ。

(カゲヤマ演劇において俳優は時に、まるで眠りながら動き、夢を見ているように振る舞い、言葉を発す る。その時に、例えばシュルレアリズムにおける夢の「真実」について思いだす。 夢の中で例えば黄金の噴水を見たとする。しかしそれは、私の中ではどうしたって黄金の噴水であるけれど、 事実はアゴラ劇場であったことにあとから気がづく。私の中で確かに黄金の噴水として立ち現れたイ メージは、目が覚めた時、よくよく見えていた姿形はアゴラ劇場であったというようなことがあるのだ。 イメージが取り結ぶ夢の中の実感は、黄金の噴水なのである。これをシュルレアリズムでは 真実と呼んだ。この間のズレに見いだされる言葉の実感。例えば俳優が言葉に臨む態度はこの可能性へ開いていくと言ってもいいのではないだろうか。 )

演劇の中で、自身の身体とキャラクターとを統合しようとする構造に、むしろその起源をさかのぼるように、他者の書いた言葉をもとに、この固有の私の身体のノイズ、無意識の声に聞き入らなければならないという、逆説的な状況をつくり出すのが、カゲヤマメソッドであると思う。 さらに言葉との関係でいえば、 カゲヤマさんの書いたテキスト、つまり他人が書いたテキストの言葉と向き合うこととはどういったことなのか。書かれたテキストもまた作家と切り離され、原理的に言葉の持つ無数の文脈にさらされていることを確認する。書かれたテキストもまた私であり他者であり、俳優の声も無数の声の現れとして相互にポリフォニックに反響し合う。特にカゲヤマさんのテキストにおいて、登場人物の言葉は、出来るだけ自らを開示しない、人格を立たせるような色は少なく、台詞によるキャラ分けも最小限で、匿名的な言葉ともいえるような振る舞いである。(もちろんそれぞれの役には役割があるし、発言内容の質も異なる)その言葉に自ずと 俳優自らが人格を読み取るのだが、その時言葉に感情や人格的なものを乗せようとするのではなく、その俳優の内にあるそれらが自動的に引き出されてしまうように、それが俳優の身体を通して客観的に見えた時、 「その人の言葉」として現れるように書かれている。俳優と作家の間に生まれるキャラクターを介さず、作家によって書かれた言葉が、直接俳優の言葉として、その身体に染み出し滲み出してくる。カゲヤマ作品において、声は書くように存在し、読むように存在するのではないかと思う。私の内部、身体にすでに蓄積されノイズのように刻まれた声と言葉が、テキストの言葉と響き合い、まさに身体のエクリチュールとして、 エクリチュールの声として、 身体から滲むように生成され、空間に広がっていく。

演劇においては、想定したキャラクターに対して、自身の身体を近づける。キャラクターの声と自身の声を統合し同一化させる。カゲヤマメソッドは、固有の身体=人格の事実に立脚しながら、されど声の占有と距離をとろうとする。私が私のままでありながら、私以外のあらゆる声としての可能性に開かれている、ためには、私の複数化、私のコントロールの困難な身体の声、無意識の声を召還すること。そこには、本当の声や偽物の声だといった対立を超えた、「超自声」(すみません、僕の考えた造語です。)が生まれるのではないだろうか。この逆説性。他者の視点を内面化して自身の意識下で声を統合するようなフィクションではなく、声の統合を保留し、自分という他者に視点を向け、そのギャップによって、複数性、多声性を呼び込む。(不思議と、この本物と偽物、自と他の境界を溶解したところに、 僕は複製メディアとの関係をイメージする。)他人の書いた言葉をもって、自身の固有の身体を内省的にフォーカスすることで、複数性、多声性に開かれるとは、極めて逆説的である。これは「私はAであり、Aではない私」という二重性を超えて、原-演劇的といえるのではないだろうか。 主体的に声をキャラクター(役)に寄せていく、或は、キャラクターを主体に引きつけて話すように、固有の身体と、キャラクターとを同一化することで声を統合する演劇に対して、固有の身体(「私」)の現前性を深化させ、聞こえのギャップを拡張、あるいは維持することで、声の近さと遠さの両義性(私という他者)を表面化させ、逆説的にあらゆる「他者」に開かせようとするカゲヤマ演劇。それは特定のキャラクターを立ち上げるような動性ではなかった。

ところで、複製される音響メディアと、演劇という一回性のメディアとでは原理的に違うのだが、ただ、 僕は、カゲヤマ演劇が立ち上げるイメージ空間には、この複製メディアのもつ複数性と、その時間的、空間的広がりをどこかで感じとってしまう。 生成され、事後的にその痕跡を聞き取らせる。それはむしろ、そういった複製メディアと人間の存在にまつわる関係をイメージ空間として立ちあげようとているのではないかとさえ思うのだ。 私がつくり出しながら、あたかも私に帰属しないような、本物と偽物の撹拌に、例えばシュルレアリズムが聞き取ろうとした声があったように、それが複製技術と深い関係であったように、カゲヤマ演劇の態度はどこかで共通しているように感じる。

さて、ロラン・バルトのいう「声の肌理」とは、声の超分節的側面、固有の身体がもつ、「それ」としかいいようのない、言葉の意味内容とは別に立ち上がる個人の現れである。この声のテクスチャーとも言うべき身体性の現れを、バルトはパンゼラという歌手のSPレコードの中に見いだした。声は発したその瞬間に消え失せてしまう。しかし、録音された声は残る。それでも尚、不完全なメディアであるところのSP盤の、当時の 技術的な側面によってもたされるノイズ、すなわち対象以外の音、空間性までも無差別に記録しながら、尚かつ、レコードの材質やその劣化によってもたらされるそれらは、あの盤に刻まれた溝に響くノイズの海であり、その海に立ち上がる身体の声は、この時間制の中で、今まさに失われ続け、消えていく過程である。 カゲヤマ演劇がたちあげるものは、このアコースティック録音のSPレコードのような時間性と空間性の中にある、人間の存在の痕跡のようなものではないだろうか。

これは演劇ではないブログ 19《2018.11.19》

カゲヤマ気象台

まだ稽古は始まっていない。戯曲を書いている。

演出もやりつつ戯曲を書いているとよくされる質問に「頭の中で具体的にシーンを想像しながら書いているんですか?」というのがあるのだけど、今までは「考えてないです」と答えていた。これは半分本当だが、実は半分嘘だ。

というのも、具体的に考えることもあったけど、うまくいかないことの方が多い。うまくいかないというのは、「面白くない」「想像と違う」みたいなこととは少し違って、「結果的によくない」「不健全だ」「風通しが悪い」みたいなことだ。なんというか、完璧に予定を組み立てたはずの休日があまりよいものじゃなかった、というような。だからいつも、なるべく「こうだ」と決めたくない、ただひたすら言葉だけのことを考えたい、と思いながら書いている。

ところが、それが具体的なアクションでなくても、何らか動的なテキストでないと、やはり劇にはならない。動的な何かがないと稽古をするとっかかりにはならない。「どんなテキストでも上演できるか」という問いに関しては、私ははっきり「できない」と答える。文章として完成されているものを上演するのは難しい。不完全なところには何かしら動的なものが入り込む余地がある。余分よりは足りないほうがいい。前へ前へと、時間が流れているほうがいい。

そうして動け動けと思いながら戯曲を書いているのだが、なんだか今回は、その動的なありようがもうひとつ展開してしまったような感覚がある。動的なさまがそのまま、頭の中で具体的なイメージとして結実してしまって、それは具体的な舞台美術となり、照明となり、俳優の動きとなってしまうような、そんな感じがする。本来であればこれはよくない傾向のはずだけど、今回は順序が違う。言葉が先で生まれたイメージ、夢のような、カフカの小説のような、そんなイメージで、簡単に形を変え、あるいは消えてしまう。だからこういうイメージに従うというのであれば、もしかしたらいけるんじゃないか? という気もしている。なぜならそれは本来的に言葉そのものとあまり違わないから。現実に根拠をもたない、いわば自由なイメージだ。これを叶えようとするのではなく、並走するような形で稽古ができたら、もしかしたら具体的なイメージと共にありながら、自由に創作ができるのではないか、という風に考えている。

今回上演する新作『幸福な島の誕生』は、ある大きな出来事が起きた状況下の東京と、もうひとつ私の行ったことのある別の地域についての演劇になる予定だ。しかし私は基本的には、ある客観的なリアリズムを描くのは演劇の役割ではない、というスタンスをとっている。『シン・ゴジラ』みたいなことは演劇はやらなくてよいと思う。重要なのは出来事としてのリアリズムではなくて、ひとつの主体がもつイメージであって、それがいかに切実さを持てるかというようなことだ。だからあくまで、この作品にとりかかる私が考えるのはある状況下の詳細ではなく、もっと夢のようなもの。夢のような都市。夢だからこそよりリアルな存在。そういったものを走らせながら、みんなで創作に向かえたらよいと思っている。

今日はすごく寝てしまった。頭をはっきりさせるために街をうろつこうと思う。

これは演劇ではないブログ 09《2018.9.8》

遭遇

―カゲヤマ気象台

先日空を見上げたら火球の流れていくのが見えた。こういう時、間違いなくそれは偶然なのだけど、しかしどこか必然だったかもしれないというような感じがする。もちろんその必然に名前をつけるのは野暮だ。野暮だが、名前をつける遊びをするとしたら、運命だとか、前世の何かだとか。

別に念じて何かが起こるわけではないということは知っていながら、しかし自分の内と外とは完全に切り離された何かとは思っていない。そこにアクセス可能な通路は場合によって存在する。そのことは常に覚えている必要がある。偶然を繰り返し同じタイミングで起こすような方法を、ずっと探しているような気がする。

以前に比べて自分の作品をやるモチベーションが安定してきたように思うのは、作品というものが自分の外部に、砂の城のように構築されるものではない、と分かったからだろう。分かったと言っても一般的にそうだと言うのではなくて、少なくとも自分にとって、作品というのは客観的な物理法則で建つものではなくて、知覚できない次元の影の反映のようなもので、確かに自分を通過しているのだけど未知のもので、しかしそれをやるためにはすごく自分をやらなければならない。自分を成り立たせている何かには、知らないものがたくさんある。それはふいに空を見上げたら火球が流れるみたいなことだったりする。

あるいは、外部とか他者を見ているのはあくまで自分でしかないので、まさにその外部とか他者を含めたありようを作品にしたいと思ったら自分自身を通過するしかない。たとえ知覚できなくても自分というものは少なくとも必然的だ。なにしろ間違いなく生きているのだ、この必然はでかい。

少し前にブライアンイーノがインタビューで最近気になっている音楽はあるかと聞かれて、自分のことをやっていたら他人の音楽なんて聞いてる暇ないという趣旨の返答をしていた。その境地にまで達するのはすごいがきっと自分にはそれは無理で、というのはいわゆるアイディアをインプットをしないといけないとかいうことより、文化に触れながら生きるような生き方しか知らないからだ。演劇でも音楽でも文学でもいいけれど、それらを通過しながら生きるのがあまりに当然にある。飽和気味の情報のなかで、たくさんの記号を獲得する。それはある意味では自分の中に隙間をたくさんつくる行為だ。汲み取れたものと汲み取れなかったものの間に真空地帯のようなものがある。そこには偶然に作用する力学がある。それ自体が生き方であって、これはたとえ自分が作品を作らなかったとしてもやっていることだ。

是枝監督の映画を一本も見たことがないのが意外だと言われて、とりあえず『歩いても 歩いても』を観た。たった10年くらい前の映画のはずなのにまるで違う国の話のように思えた。もしかしたらあのときの「普通の人々」という存在が信じられなくなったのかもしれない。別の日に『女が階段を上る時』を観て、こっちのほうが逆にしっくり観れた。黛敏郎の音楽と仲代達矢の不良シティボーイぶりがかっこよかった。

これは演劇ではないブログ 01《2018.7.21》

これは記者会見のレビューではない

―カゲヤマ気象台

これは「これは演劇ではないブログ」と言って、週に一回、参加アーティストが交代で文章を載せる。フェスティバルに対する意気込みのようなものもあれば、ただの雑感もあると思います。いずれにせよ、我々のそれぞれの考えていることはこれからいろんな手段で発信していきたい。

第一弾を私、カゲヤマ気象台が担当することになったのだけど、企画メンバー(綾門優季、額田大志、カゲヤマ)の中では私がいちばん最後に参加が決まった。いわばドラマーみたいなもので、だからこれはドラマーが最初に何か書いている、というようなことだな、と思った。現実ではどうだか知らないけど伝説ではドラマーはいつも一番最後に加入する。

よろしくお願いします。

ところで先日記者会見があって、企画メンバーが主な登壇者となり(司会Aokid)、このフェスティバルについて、フェスティバルのタイトルについて、各自の作品について、などをしゃべった。後日レビューが出る予定なので、しゃべられたことがどういうことだったのかはそれを参照していただけたらと思うのだけど、ここでは「これは演劇ではない」という言葉についての、個人的な所感を、記者会見とは違う語り方で書く。

(もちろん企画メンバーとしての共通の声明はステイトメントという形で出しているので、これはあくまで、ごく個人的に感じていること、ということだ)


▲「フェスティバルの記者会見」の様子 (Photo:kiyoshi hashimoto)

私だって生まれてすぐ演劇を把握したわけではない。

私は生まれてからこれまで生きてきて、その間に確かに演劇とも遭遇したが、しかしある文化の中で、人と話し、テレビを見、本や映画に触れ、音楽を聴いてきた。それらを通過してきた体というのが確かにあって、演劇はここからいつも再び始まる。つまり、これはひとつの体の問題だ。体はいびつであったり、矛盾を抱えていたりするし、自然もあれば無理もある。恥ずかしいものやダサいものもある。体操すれば気持ちよかったりもするが基本的にだるかったりもする。しばしば感情的であり、悩みや迷いもあり、見栄も張り、人生と呼びたくなるようなやつがある。こういうことぜんたい含めて、「体だな」という感じがある。

これは必ずしも個人的なことだけではない。我々の体は文化や、社会や、他者や、それらをつなぐ想像力を絶対的に含めてしまっている。これはそういう意味でのぜんたいの問題だ。むしろ個人の体というものが無視されて演劇が社会をやるようなことがあればそんな信用できないことはない、ここで言う体というのは俳優の身体の話ではなく、それも含めたこれに関わっている人間たちの体のことだ。私はこういった体をもって、きっとこれが演劇に違いない、これこそが、演劇と呼ばれることが、信じられるものだ。という信念をもち、その信念のうえで、脚本を書いたり、俳優たちとだらだらしゃべったりして日々を過ごしている。

しかし、残念ながら私たちの文化は、(東京の)文化は、今のところ、この体を見るために最適の場所であるとは、到底言えないだろう。

私たちの体は、ある快適な劇場の空気のなかで、ひとつ次元を落とされ、陰影を失い、そのうえで表面に浮いて出てきた記号のようなもので判断され、比較され、これといぜん観た○○とは似ているね、であるとか、これは○○だね、とかこれは○○でないね、とか、ここの形はうまくないね、ここはわりあいうまいね、だとか言われがちである。(これはつまり美食家ということなのだけど、美食家はいつの時代も存在する。美食家が滅びろと言うつもりはない。私だって美食家的にふるまうこともある。しかし味覚は更新される。まだ名付けられていない味覚、記号化されていない味のようなものが、世には可能性として存在するはずだと思う。そこには豊かさがあるし、少なくない人に求められているものがあるはずだと思う。)

あらゆる演劇は、演劇らしきもの、曖昧で不明瞭な「演劇らしきもの」に回収されて、その範囲内でばかり語られがちだ。ここには明確にずれがある。この差がうまることはないだろう。しかし「演劇らしきもの」の範囲の中に、私はもっと、今言った体であるとか、生きていること自体が、含まれて欲しいと思う。ほんとうに豊かなもの、ほんとうに今必要なものが、もっと有効であってほしい。豊かなものが、強い言葉とか、大きな声とか、刺激的な色とかなしに、遠くまで、それを必要としている人にまで届くようなことというのを信じたい、と思っている。

いやむしろそのことが、どうしようもないこの体のようなものが、「演劇らしきもの」の中に存在が認められれば、それはいっそう大きな意味のある文化となるだろう。私はそういう、大きな変化を為しうることこそが私たちの(東京の)文化の持っている力だと思うし、それを信じて、少しでも何か意味があることを期待して、ひとつの呪文のように、「これは演劇ではない」とつぶやいてみたい。

何か少しは変わるものもあるだろう。

私はこの言葉に似た感触が過去にあったなと思ってしばらく考えたんだけど、むかし病院の待合室で読んだ、背表紙の日に焼けたマンガにあった「ただのケンカしようぜ」て言葉だったような気がする。

違うかもしれない。

(状況がわかりにくいと言うならいっそトーナメントにしてみました、っていう)