これは演劇ではないブログ|これは演劇ではない | This is not the Theater.
これは演劇ではない俳優ブログ 10《2019.1.24》

西山真来(青年団)(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

「これは演劇ではない」内「幸福な島の誕生」も千秋楽を迎え、フェスも今日のAokidさんのアフターイベントを残すのみです。(21日昼現在)

とても多くのことを感じ考えたフェスだったので覚え書き。

アゴラ劇場は見慣れた劇場だったけど、コンクリートと木と鉄骨でできてるんだな、劇空間である前に物体なんだな、と今回初めて気づきました。皆さん素材として扱ってたから。

あとアゴラで演劇をするときは大抵、一階の楽屋から裏階段を足音をたてないよう静かに上がって小扉から楽屋袖に入ってましたが、建物の構造的には一階からの梯子で入るかエレベーターの方が便利だなと思いました。 なのに今まで忍び足で小扉から入って「嘘」を作りに集まって…て、変な行為だなーって思いました。
その変な行為のこと愛してるなーと思うけど、ちゃんと愛するためには「ここにあるのはただの物体でしかない(予めドラマが用意されてるわけではない)」ということを知っておく必要があるなと思いました。 いろんな価値観の現場があるけれど「これは演劇ではない」通過俳優として、それは基準にしたいです。

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これは演劇ではない俳優ブログ 6《2019.1.9》

畠山峻(PEOPLE太)(青年団リンク キュイ『プライベート』出演)

はじめまして。キュイ「プライベート」に出演してます。畠山峻です。

昨年末くらいにみなさんのブログをよんで自分もなんか書かなくては!俳優ブログを書かなくては!と思っていました。思ってはいたのですが忙しさを理由に書くのを遅らせていました。

誰に頼まれたことでもないのに、書かなくては!と一旦思うと書くことから逃げるという現状にモヤモヤが溜まり続けます。そしてもう本番3日目が終わり、ようやくこの文章を書いています。

僕は何か立派な文章が書ける気がしないから書くことを怖がっていた気がします。人の書いたブログとか批評家さんの文章とかを読み、面白い。俺にこんなの書けない。俺には無理だと。尻込みし続けました。それに文字だけで判断される場所にエントリーするのはこわい。ネットだし。知らん人が見る。

でも僕はこう思いました。立派な文章じゃなくてもいいじゃないか。無様でもいいから書いてみるということをしてみよう。


僕は字を書くのが下手くそでとても汚い文字を書きます。小学生のとき国語の時間をぼーっとすごしたもので未だに書き順もあやふやです。だから手書きの文字を人に見せるだけでも負い目を感じます。でもスマホで打った文字はデータなのでとても綺麗です。結構それらしくなる。当たり前のことだけど。

ちょっと俯瞰ができるな!よし!文章って基本一方向にしか進まないようにできてるし、まちがえたら後で修正も出来る。それなりにきっとなんとかなるだろう。


希望!


舞台に立っていると色んな事が同時におきます。人の話を聴きながら体をうごかし何かに思いを馳せて、ふと発した言葉に対する相手の反応にまた反応する。順不同。連鎖は続きます。成功もあるし失敗もあるしどちらとも言えない時もたくさんある。それらは絶対に時間を戻して修正することは出来ない。でもなんかその複雑さ、不便さ、無様さに身を投じることに興味があるから舞台に立つということをしているのかなと思います。定期的に鏡を見て、定期的に人に見られないと僕はロクなことを考えないでしょう。独りよがりにただ老いていくのは本当に恐ろしいことです。そして健康にも絶対良くない。斜に構えた頭でっかちにならないために。居直らないために、僕は自分のために演劇をやってるのかなと思います。

今回の演出の橋本くん、劇作の綾門くんもちゃんと悩んでる様を見せてくれるから僕は信頼してます。「これは演劇ではない」と銘打ったフェスですが舞台上に立っている僕にとってはそんなのは関係なく、その日その場所で生まれたかけがえのない「演劇」です。

今回の上演くらい一回性を意識したことありません。よっしゃあ!次も頑張るぞ!ゆるやかに。

これは演劇ではない俳優ブログ 5《2019.1.8》

これは役ではない

―串尾一輝(青年団/グループ・野原)(青年団リンク キュイ『プライベート』出演)

「これは演劇ではない」というフェスティバルに参加する上で(それはもちろん観劇も含めて)、演劇とは何だろうか?という疑問は、文字にすると余りに陳腐になりすぎるほどにはすべての人が考える疑問だと思う。

それを考える際のベクトルは演劇というものへの関わり方にもよるところが大きく、僕の場合それはもちろん”演技とは何だろうか”という視点からに他ならない。
更にかみ砕いてみるなら、”役とは何か”ということになると思う。
実はコレ、ひよっこピヨピヨ俳優である僕の最近の専らの関心ごとであり壁である。
「これは役ではない…」そういう状態で舞台に立つことを求められることがしばしばある。
言ってることはわかるけど、じゃあ実際どうするのと。なることもある。

バイト先や美容室で「今度の劇?は何の役なの?」と聞かれて困ることがある。というのは俳優あるあるだと思う。演じる・演じられるものはリアリズムであるという前提が彼らにはある。
「何の役とかじゃないんだけどなー」と思うも、それを言うと鼻につく感じから逃げきれなさそうだし。
「人間とかじゃない役ですね。」なんて意訳を試みるも、意図しない印象を植え付けそうでそれも憚られたり。

そもそも演劇で、一貫した人格としての役を与えられるほうが少ない(これは人によるか…)

この、役ではない状態が孕む曖昧さというのは、僕のピヨピヨなりの経験から言うとかなり厄介、ともするとこの曖昧さが作品作りの停滞の主要因にもなったりする。
役ではない状態を扱う演出家はここの言語化と理論武装を最優先に行ってほしいと思うことも多々ある。これは愚痴ではない。

俳優は芸術作品の中に組み込まれる存在ではあるけど、俳優それ自体は芸術と技術と、論理と非論理と、可視と非可視と、その対極的な諸々を兼ね備えるとても曖昧な存在なんだと思う。作家だってそうだ、演出家だってそうだと言われるかもしれないけど、やっぱり最終的に観客の前に曝されそれを遂行する俳優が、最もその曖昧さを引き受けてると思うのだ。
もちろん、自分が俳優だからという掛け値あり。

しかしだからこそ、その曖昧さが曖昧というのは、曖昧を舞台上で具体にする俳優にとっては死活問題でもある。

ただ今、書きながらこの”役ではない状態”って、コンテクストの断層がそこかしこにありそう。

じゃあ逆に”役である状態”とは何だろか。
これは、その物語なり何なりの登場人物と舞台上にいる人物が、観客から見ても、演じている本人から見ても一致している状態である。と思う。
リアリズム、会話劇なんかは基本的にこれだと思う。
その人物がその人物として、その人物の言葉を喋っている。
ある意味一番楽な演技態でもある。これはもう悩むことは何もない。
ただその作品と、その人物の戯曲上の役割と心情にのみ想いを馳せていればいい。高速道路!を走っているような状態である。
その馳せた想いを実現できるかどうかはさておき、とりあえず演技態自体について悩むことはないだろう。悩むのはその先の出力のプランになってくる。

ザックリいうとこれ以外は、全部僕的には役ではない状態なんですけど…
(とか言うと、自分がリアリズムの縄にがんじがらめにされているだけな気もするんですけど。もともと演劇コンテクストは狭めだと思ってますし。)

舞台上に存在して観客に認知されるAという存在、しかしその発せられるセリフはAのものとは限らない。別の存在Bのものかもしれないし、作家Cの観客へ向けた手紙かもしれない。そしてそれを演じる俳優はもちろんAと同一ではない。
という頭がおかしくなりそうな状況が、僕のいう”役ではない状態”です。

昨今の演劇シーンでは当たり前に見られるシチュエーションではあると思うけど、これを”それらしさ”で煙に巻くことなくやりきるのはかなり難しいと個人的に感じていて、毎回毎回苦戦している。
全国の俳優のみなさーん!どうしてますかー!ヘルプミ!!って感じです。

僕は俳優は芸術家である前に職人でなくては!と思っているので、この辺の曖昧さに向き合うときに、自分語でも構わないから腑に落としたい気持ちがある。
雰囲気でやってしまったら、途端にそれは俳優じゃなくてもできる作業になるから。
念押すと、これは所作や発話のアイディア以前の向き合い方についてです。

ただ、だからか、やっていて楽しいのは最近明らかにこの役ではない状態なんですよね笑
自分の所属するグループ・野原ではこれを個人的にはテーマにしている。個人的には。

自分は演劇と何のゆかりもなく18年くらい生きてきたので、どうしても当初は演技を捉えるときステレオタイプな”なりきる”からスタートしてしまって、今、少しずつその縄を、時折恥ずかしい恰好になりながら解いているところです。

これは僕ではない。

と同時に僕以外の何者でもない。

ここもここではない。ということにしているけどここ以外のどこでもない。

これは役ではない。

そんなどうしようもなさに全力でぶつかって生じる反作用が演技の主エンジンだと思うから、これからも、そしてキュイ『プライベート』も、精一杯演技(僕(ではない))と向き合います。

劇場で出会った時は皆さんの考えも聞かせてください!

これは演劇ではないブログ 20《2018.11.27》

かんきゃくろん

―綾門優季

こころのなかにいちばんめのかんきゃくがいてそのかんきゃくにといかけます。これはなんですか。いちばんめのかんきゃくはちゃんとかんがえてくれるかんきゃくなのでちゃんとこたえてくれることのほうがおおくてこたえがちゃんとしていたらあんしんができるのでねむります。ところがいちばんめのかんきゃくがちゃんとこたえてくれなくていちおうまってみるんですけどいつまでたってもこたえてくれないとしびれをきらしてくちにだします。これはなんですか。そこにはにばんめのかんきゃくのへやのかべがあるのでへやのかべにはんきょうしたぼくのこえがかえってきてだいさんのかんきゃくのぼくにかえってきてだいさんのかんきゃくのぼくがかんがえるばんなんですけどよくわからないのでなんどもこえにだしてしまうのはせかいのるーるということになっています。これはなんですか。これはなんですか。これはなんですか。これはなんですか。これはなんですか。ぼくのこえがくらやみにとけこむだけになってしまってわんわんとなりひびいてどれだけのときがながれたかもよくわからなくなってしまったみみがひめいをあげてしまったらかみにかいてみます。だいよんのかんきゃくのかみです。かみはむくちですがかみをながめているといちばんめかにばんめかさんばんめのかんきゃくがふとへんじをおもいついてこたえてくれることがあるのです。でもきょうはかみにむだにかいてしまったようです。なぜならとてもしずかだからです。こたえてくれないんだなあとおもってじんせいのぜんはんではそのままねむっていましたがじんせいのこうはんではそれをひとにみせるというせんたくしがあるということをしったのです。かくめいというやつです。これはすごいです。ここでだいごのかんきゃくのえんしゅつかさんがとうじょうします。あれこれいってくれます。とてもよくかんがえてくれます。わーいっておもったりむむむっておもったりしてだいろくのかんきゃくのはいゆうさんがくちにだしてだいななのかんきゃくのけいこばのかべにはんきょうしたけっきょくはぼくのこえがかえってきてだいさんのかんきゃくのぼくにかえってきてだいさんのかんきゃくのぼくがまたかんがえるばんでだいはちのかんきゃくのおんきょうさんとだいきゅうのかんきゃくのしょうめいさんがあれこれいってくれるのでじゅうばんめのかんきゃくのとかげくんにあらためてといかけるのです。とかげくんにはいざというときにしかはなしかけません。したがってしまうからです。うんうんうんといってげきじょうにむかいます。じゅういちばんめのかんきゃくのせいさくさんがまっています。ところでここまでのじゅんばんはじゅんふどうです。

あれあれ。きおくがとぎれてしまいました。とおくからはくしゅがきこえます。ひゃくろくじゅうにばんめ? あのときからかぞえるとごせんきゅうひゃくにじゅうななばんめ? おもいだせるかぎりまえのところからだとにまんにせんはちじゅうよんばんめ? のかんきゃく? がろびーでぼくにはなしかけてきてぼくはこたえをはじめてしってこれまでのながいたびのことにおもいをはせるのです。せかいはひろいです。せかいはひろくてすごいなあとにまにましながらいえにかえってとかげくんをだいてねむりますがとかげくんにはふだんははなしかけません。これはなにかわからなくてもだいじょうぶなこともあるからです。

これは演劇ではないブログ 10《2018.9.16》

災害について

―綾門優季

ひらがなでブログを書いていくシリーズの第二弾を本来お届けする予定でしたが、誕生日の9月6日に大地震が起きるという後味の悪い出来事があり、気が変わったので通常状態の綾門でお送りします。

『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』(戯曲)
https://note.mu/ayatoyuuki/n/nbd514fcbeab2

2018年12月、青年団リンク キュイで上演いたしました、『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』の戯曲をnoteで販売します。当日の物販でも売っていなかったので、これが初公開となります。500円です。

北海道胆振東部地震を受け、この戯曲の売上全額を、緊急災害支援基金(Yahoo!基金)に寄付することにしました。

「北海道胆振東部地震の被災地支援について」
http://nuthmique.com/post/177830978003/hokkaido

これは僕のアイデアではない。額田大志さんの先日の物販売上寄付の試みを、恥ずかしげもなく大胆にパクリました。パクリだろうがなんだろうが、やらないよりはやったほうがいいなら、やればいいじゃないか、という気持ちです。フェスティバルの効用のひとつに、お互いがお互いに影響を与える、思考のきっかけとなる種を植え付けられる、ということが挙げられます。家で購入した東京塩麹『リフォーム』のDVDを眺めながら「この方法、すぐにやれるな、やろう。」と思い立ちました。

僕の最近の戯曲は『不眠普及』『TTTTT』『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』と、常に災害について扱ってきました。パンデミック、自爆テロ、大震災、ファシズムの暴走、無差別殺人…。天災も人災もありますが、一貫して関心があるのは「たとえ善行を積み重ねるような生活を続けていたとしても、問答無用で明日にもその生活は壊れるかもしれない」という恐怖とどう戦うか、どう受け入れられるか、ということです。

被災された方の中には、きっと理不尽さを受け止めることが出来なかった方もいるでしょう。宮城や福島に仕事で行くたびに、その理不尽さを未だに考えあぐねている現地の方の話を聞いて、どう受け止めればいいのか、わけがわからない感情になります。自分よりもっと辛い立場に立たされている人が存在するから自分は辛くない、と呪文を唱えるのは無意味です。起きてしまった辛さへの処方箋はありません。「何故このようなことがよりによってここに、わたしに」という降って湧いたような理不尽さは、容易に解消されません。が、元の姿を取り戻す日が早く到来することは、少なくともその理不尽さを緩和させる一助にはなる、そのように考えます。

そして震災を始めとした様々な天災の連続で、心がグッタリしている皆さまへ。それも被災です。そのグッタリ、何も出来ないという絶望感から生じていませんか。500円で、少しだけ解消しませんか。もれなく戯曲もついてきます。僕は『リフォーム』を買ったとき、ちょっと楽になった気がしました。手に余る大規模な支援は出来なくても、今やれることはした、という実感があったからです。

皆さまの安全と、一刻も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

青年団リンク キュイ主宰
綾門優季

これは演劇ではないブログ 02《2018.7.28》

とかげくんとぼくとなつやすみ

―綾門優季

きょうは、みんなにぼくのともだちをしょうかいします。 とかげくんです。


(綾門優季 作『フェスティバルの記者会見』 会場:山吹ファクトリー 撮影:綾門優季)

とかげくんがぼくのいえをたずねてきたのはことしのはるのことでした。ともだちのいないぼくはそれまでいえのはしらやすいはんきにはなしかけていましたが、いえのはしらやすいはんきはただしずかにしんみりときくばかりで、ちっともしゃべってくれません。あいづちさえうってくれません。でも、とかげくんはちゃんとしたいしをもってぼくのこえにこたえてくれます。ぷるぷるふるえているときはわかりにくいですがかんどうにうちふるえているときです。とかげくんがぼくのいえにきてからは、きがついたらずっととかげくんとはなしこんでいるひびです。
(これはないしょですがとかげくんのこえはぼくにだけきこえているのです)

とかげくんとぼくがはなすことをぼくは「えんげき」とよんでいます。「かんきゃく」はいえのはしらやすいはんきです。ほぼまいにち「じょうえん」がぼくのべっどのうえでおこなわれます。「すてーじ」をかさねるごとに「えんぎ」にますますみがきがかかっています。

こないだはきしゃかいけんというどきどきする「しゅつえん」があったのでいっしょに「ぶたい」にあがってもらいました。とかげくんの「ねつえん」にぼくもゆうきづけられたおかげで、ゆったりと「すてーじ」にいられたようなきがします。

でもとかげくんが「いえにいたい、いえにいたい」とだだをこねるので、ぼくはげつようびにとやまけんのとがにきてから、ひさしぶりに「えんげき」の「じょうえん」をべっどのうえですることはできなくなってしまいました。だからすこしさみしいです。ぼくはひびを「かんきゃく」のじょうたいでかちこちにかたまったまますごしています。おもしろい「じょうえん」をみるとぼくもはやくいえにかえって「じょうえん」がしたい!とむずむずします。それはとてもがまんすることのできないむずむずです。でもこうでもしないとぼくが「かんきゃく」のままでいることはないからそれはそれでいいのかもしれません。「かんきゃく」だけしかかんがえないことがあります。

たくさん「じょうえん」をみましたが、とんでひにいるなつのむしってこういうことかあ。というかんじではちすももさんの「えんしゅつ」した『おかしたもの』がとてもおもしろかったです。そとだったのでとにかくあかるいところにいこうとするむしが「すてーじ」にたくさんとびこんで、そしてたくさんしにました。しんでもしんでもむしがやってきました。むしろふえていくようでした。そしてたくさんたくさんしにました。「ねつえん」でした。それが『おかしたもの』の「かんきゃく」につたえることばとつながって、あたまのなかがばちばちするかんかくがありました。むしもあかりにとびこんでばちばちしていましたが、そのばちばちではないです。


(三好十郎作 蜂巣もも演出『冒した者』 会場:富山県利賀芸術公園 岩舞台 撮影:津田壮章)

ばすけをするようなおはなしじゃなかったきがするけどなぜかずっとばすけをしていて、とくにくしおかずきさんがそういういみじゃないせりふをまるでばすけのことのようにしれっとうまくいったかんじのするところは「『おかしたもの』はばすけだったのか!しらなかった!」ととてもおどろきました。もういちど『おかしたもの』をよみなおしてもあたまのなかでばすけっとぼーるをつくおとがずっとこだまして「これがえんしゅつのちからだ!」とぷるぷるふるえました。だん。だん。だん。だん。

ぼくはすごいばすけのしあいをみた!とこうふんしてこうひょうかいにいきました。いろんなむずかしいことばがあっちからもこっちからもでましたが、とくにおりざさんからは「えんしゅつ」のせいぎょについてのおはなしがあり、いちばんむずかしかったです。はちすさんたちはばすけのしあいをしていて、ばすけのしあいをせいぎょするってどういうことなのかつかめるようでつかめなかったからです。「かんきゃく」のところにぼーるがとんでいったり、もりにぼーるがとんでいったり、たしかにせいぎょできているとはとてもいえないけれど、ぼくはさんどのめしよりも「すてーじ」でおこるあくしでんとがすきで、しかもかくしんはんてきなあくしでんとだからあれはあれでよいとおもっていたのでした。ばすけも「えんぎ」だとおもったし、ばすけのごーるがきまったしゅんかんは「ねつえん」だとぷるぷるふるえたんだけど、なにが「えんぎ」でどこまでが「えんしゅつ」なのか、「ぎきょく」をたいせつにするってどういうことなのか、んぎゃーとなりました。ことばのいみはいっぱいあったほうがよくて、「えんしゅつ」しだいでそれこそあくしでんとみたいにあたらしいいみがいくらでもうみだされるのに、「えんしゅつ」はびしっとかためないといけない?「ぎきょく」はかためすぎるといみがまずしくなるからいけないのに?「えんしゅつ」をちゃんととじることで「ぎきょく」がはじめてひらく?「ぎきょく」と「えんしゅつ」はことばのとびらのあけしめ?それとも「えんしゅつ」はことばのとびらにとってのかんぬき?「ぎきょく」はむすうのとびら?「えんしゅつ」のことをかんがえていたのに「ぎきょく」のことまでいつのまにかぐるぐるかんがえこんでしまっていて、

わからぬ!!!

わーってなってねました。
むずかしいことをかんがえるとねむくなります。
そういうときはすぐねることにしています。
おきたらすっきりわかるようになることもあるから。

きょうはおひるごはんにでたすいかぜりーがおいしかったのでとてもよいひです。ぜんりょくでばすけしているひとたちのあせとすいかぜりーが、ぼくのなつへのとびらをあけてくれました。

あやとゆうき