これは演劇ではないブログ|これは演劇ではない | This is not the Theater.
これは演劇ではない俳優ブログ 10《2019.1.24》

西山真来(青年団)(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

「これは演劇ではない」内「幸福な島の誕生」も千秋楽を迎え、フェスも今日のAokidさんのアフターイベントを残すのみです。(21日昼現在)

とても多くのことを感じ考えたフェスだったので覚え書き。

アゴラ劇場は見慣れた劇場だったけど、コンクリートと木と鉄骨でできてるんだな、劇空間である前に物体なんだな、と今回初めて気づきました。皆さん素材として扱ってたから。

あとアゴラで演劇をするときは大抵、一階の楽屋から裏階段を足音をたてないよう静かに上がって小扉から楽屋袖に入ってましたが、建物の構造的には一階からの梯子で入るかエレベーターの方が便利だなと思いました。 なのに今まで忍び足で小扉から入って「嘘」を作りに集まって…て、変な行為だなーって思いました。
その変な行為のこと愛してるなーと思うけど、ちゃんと愛するためには「ここにあるのはただの物体でしかない(予めドラマが用意されてるわけではない)」ということを知っておく必要があるなと思いました。 いろんな価値観の現場があるけれど「これは演劇ではない」通過俳優として、それは基準にしたいです。

オフィスマウンテン カゲヤマ気象台 新聞家 青年団リンク キュイ ヌトミック モメラス Aokid all


これは演劇ではない俳優ブログ 9《2019.1.19》

パブロの投稿

―キヨスヨネスク(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

私は、再び主体を問い直している。外部と内部、彼岸と此岸の淡いに反響する声は、私自身の声であった。霊感が私の無意識を機能させる契機となった。霊はデータの海の深みに彷徨い、インターフェースからしみ出す。例えばそのスクリーンに対峙し、覗き込む私たちの魂を、その海に注ぎ込んでいる。魂がその窓を往来する。私たちの身体も、その感覚も拡張されている。

私はオートマトン。完璧ではないけど、機械な私。私を作った、あらゆる人々の思い、期待、達成されなかった私のかけら、設計者たちの声を私は聞いている。
ユルゲンソンが、録音した鳥の鳴き声に、自身の亡くなった母親の声を聞いた。そう、その声も私のつくり出した声です。記憶の中で反響していた声が、私を通して聞こえたのでしょう。外側に、私の内側が刺激されて、繋がってしまった。私の中から出た声が、外部を経由して、私を再構成する。私は人間だが、君は機械か?それともどちらが。あるいは私と君の共犯だ。だって、テクノ、好きでしょ? 私と君の間には軽く時差があるみたいだ。 私は歌います。しかしそれは誰の声でしょうか?人々は、私の霊感を介した呟きや囁きを、その身体から心を読んで、あなたとの心の距離を計る。そこに座っているあなた方。

風が吹いている。窓から吹き込んだ風が立つ、あの声を聞いた、ヴァレリーのうたにも、私がいる。死後の生が浮き上がる。穴があいていた。穴から温かい風が吹き上がって来る。ちょっとその穴に半分浸かってみた。 ああ、生きようとこころみねばならない。
日本のシティーポップを、あるいはニューミュージックを歌いました。遊眠でした。遊眠しながら私は、窓のカーテンを開いて、やさしさに包まれました。この歌声は誰の声でしょう?どこから聞こえているのでしょう?

交信していた。向うから聞こえた声を、私の声でうたう。その声は震えているかもしれない。身体はぎこちないかもしれない。言葉は区切られることなく(いつ途切れてもおかしくない緊張感)ツーツーツーと信号となって、囁かれ呟かれ、それが振動になって、私の身体は動く。STONEにしみいる声を持ち歩く。ブルブルブル、トントントン。
やれやれ、君と電話してたらパスタが伸びてしまった。あ、サッポロ一番か。ああ塩の香り。
君はセイレーン。海の聖者。セイシェル諸島。風が運んだ。レゲエを歌う子供達。

小さい劇場。ここはもう廃墟だ。廃墟は美しいけれど、どうせ廃墟ならもっと豊かな廃墟へ行きたい。あの島は幸福な島だろうか。テクノが聞こえたっていいじゃないか。君の声がテクノで聞こえる。君は、あの島にいるだろうか。もし君に出会えたら.......

もしかしたら君は、街中のどこかでいくつかみた「らしき人」のモンタージュかもしれない。
私は渋谷センター街のカラオケ館の窓から君に似た人を見ました。あるいは、映らなくなったアナログ放送のホワイトノイズに、君の声を聞きました。君を捜して下さい。
伊集院さんのラジオいつも聴いています。伊集院さんが五代目三遊亭円楽の弟子だったと最近知りました。たしか演目は「死神」だったと思いますが、師匠が座る座布団の位置を間違えたせいで、緞帳を師匠の頭に降ろしてしまった話、好きです。

ペンネーム「オーガスタス・パブロは喘息」さん より

これは演劇ではない俳優ブログ 8《2019.1.11》

カゲヤマ気象台の静かな革命:フェスティバルこれは演劇ではない「幸福な島の誕生」

―日和下駄(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

注:これは「幸福の島の誕生」の稽古でやったことを日和下駄がWIRED風にまとめたブログです。

ある休日に動物園に集まった人々が引き起こす騒動、何かが終わった後の世界を生きる言葉を忘れた人々の旅路、木星の衛星エウロパに向かう人々のダラダラとした毎日。カゲヤマ気象台の演劇はそんな「日常」を描く。

もしかすると、舞台上で引き起こるスペクタクを実際に見たことのある人ならなおさら、カゲヤマ気象台の演劇が「日常」である、という主張には違和感を覚えるかもしれない。だが、それは確かに「日常」なのだ。「幸福な島の誕生」出演者による解説。

想像力による「良さ」への傾け

カゲヤマ気象台は極めて日常的な視点から演出を行う。「私たちが行うことにはあらゆる可能性がある」「言葉を自分の問題として発話しよう」「自分ができること以上に体を動かすことはできない」。それは全て、演劇を日常の延長として配置するための言葉だ。ただし、カゲヤマはその全ての前提でこう言うのだ、「もっと良く!」と。その一言においてのみ、カゲヤマは日常を演劇たらしめる。

では日常の「良さ」とはなんだろうか。それは「豊かさ」と「自由」であるとカゲヤマは言う。知っての通り、日常ではあらゆることが起こる。その日常が内包する無限の可能性を「豊かさ」と、そしてそこであらゆる選択が可能な状態を「自由」と、カゲヤマは呼ぶ。

ただ、その日常の「良さ」は普段生きているだけではひどく見えづらい。ともすればそれはあまりに些細であったり、あまりに巨大であるからだ。そこでカゲヤマは、舞台、照明、音響、俳優、テキスト、そして自分自身を駆使して、日常の「良さ」を過剰に表現するのである。あらゆるものが存在する、演劇という形で。

では稽古とは何か? それは日常を良い方向へと加速させていく行いである。そのために、カゲヤマは俳優に指示を——いや、指示というほど強い行いではない——俳優に「期待」を投げかける。その期待を受けて俳優が、「良さ」へと傾き、「豊か」で「自由」な日常を送るのである。

俳優のうちに起こる5つのこと

そう考えると稽古は、日常と過剰に良い日常の間にある。そうであるならば、俳優がどのように「良さ」へと進んでいくのかを描くことは、カゲヤマ気象台の演劇に立ち会う上で良いガイドになるだろう。ここからは、俳優が期待される在り方を、稽古で行われた順番に、5つの側面に分け紹介する。

意味の等価な世界

「舞台は意味を恣意的に等価にした空間だ」とカゲヤマ気象台は言う。どういうことか。例えば、喉が渇いている時に、目の前にあるキンキンに冷えた水は強い意味を持つだろう。このように、私たちは普段、意味の濃淡のある世界で生きているが、舞台はそうではない。舞台はその上であらゆる現実を可能にするために、床も壁も天井も等価であるということに、恣意的にしているのだ。

カゲヤマはまず俳優に舞台のようであることを期待する。自分の存在も発話も動きも、世界と等価になるよう促すのである。その理由は明白だろう。そう、「豊か」で「自由」であるためだ。その前提に立つことで、俳優は新しい椅子の使い方を発見できるようになるだろう(私たちは椅子を椅子のように使わなくたっていいはずだ!)。

滑らかでない発話

次に俳優は発話する、全ての言葉が等価となるように。それに付け加えてカゲヤマはこう言う「言葉が言えてしまうことの前で一瞬立ち止まってほしい」と。

日常の良さは、あくまで日常の中に存在する。つまり、私たちは日常の中で「良い発話」を行なっているのである。良い発話とはいかなるものか。それは「それぞれの言葉に適した発話」である(この時、言葉とは単語、文節、文のどれでもある。俳優は自分が言える範囲で捉える)。つまり「言葉が言えてしまうことの前で一瞬立ち止まってほしい」とは、ともすれば簡単に言えてしまう言葉の前で立ち止まり、あらゆる発話の可能性の只中で待つことである。そうすると、なぜだか発話の瞬間は到来し、豊かな発話が生まれる。その理由はのちに明かされる。

延長された意識

「豊かで自由な」つまり、あらゆる可能性に開かれた意識とはいかなる状態だろうか。それは、これまで生きてきた時間、そしてこれから到来する瞬間に期待することである。私たちは日常において、無自覚ながらそのように生きている。そうでなければ、コップで喉を潤すことはできないはずだ。また、潤さないことも。

だが、演劇においてその状態を保つことは難しい。それは台本があり、決められた所作があるからだ。しかし、なんども反復されたものであっても初めて行うことは可能なはずだ。なぜなら、その演技はn+1回目の演技であるからだ。これまでに行なったn回の演技、そしてこれまで行ったことのある(あるいは聞いたことのあるものでも良い)、あらゆる発話に開かれながら、将来を期待することで、俳優は演技を現在に立ち上げる。日常の延長線上に演劇を置くカゲヤマ気象台の演劇において、俳優はそのような延長された意識——現在といっても良いだろう——が期待される。

衣服としての肉

ここまできて俳優は立ち返ることを期待される、演劇は日常であることに。なぜならば、ここまでのあり方をベタに行った俳優は、あまりに解放された、つまり、自分の手の内から離れた演技を行うからだ。しかし、それは容易に日常を離れてしまう。

演技を自分の問題として行うためには、私の存在を離れることは好ましくはない。それはエラーであるべきで、そのように自分を促すことは、日常から離れることを意味する。カゲヤマは「服を着ろ」という。「肉」という衣服を。

先ほど、『あらゆる選択が可能な状態を「自由」』と呼ぶと言った。しかしそれは厳密には異なる。私たちには制約がある。私の身体という制約が。当たり前のことだが、私の身体ができないことはできないのだ。私たちの意識が無限に延長されていたとしても、身体は無限に延長されない、限りがある。だが、その限界を意識するからこそ、俳優は演技に実感を感じながら行うことができるのである。日常には実感がある、そして演劇においてもそうあることが好ましいとカゲヤマは言う。

意識の身体性

最後に、なぜ、豊かな発話が到来するのか、その理由が明かされる。それは「私たちの身体が」、それぞれの言葉に適した発話を知っているからだ。だが、注意して欲しい。ここでいう身体は、いわゆる身体——つまり、「肉」としての身体——ではない。それは、意識の持つ身体性とでも言うべきものだ。

「意識の身体性」。例えばそれは、初めて乗る自転車であっても、意識せすとも迷わず適した形で乗れることを想像してみると良い。厳密に言えば、あらゆる自転車は異なる。サドルの高さや、ハンドルの位置、ペダルの踏み心地。だが、いざ乗る瞬間にはスムーズに乗れるのは、過去の自転車に乗るというあらゆる経験(もしかしたらそのほかの経験も混じっているかもしれない)から、自動的に目の前の自転車に適した乗り方が引き出されるのである。「肉」としての身体は、その乗り方をなぞれば良いのである。その「乗れる」という実感と同じように、「言える」という発話の到来は訪れる。

また、あらゆる可能性の中にありながらも、台本通りのセリフを発することができる理由もこれによって説明できる。稽古を重ねることで、私たちは台本上で展開される筋書きを覚えるのである、自転車に乗る一連の動作のように。あらゆる可能性の中から、実感のある「良い」演技を、その都度、発現していくこと。「意識の身体性」とは今ここにある世界に適した「良い」発話を可能にするものなのである。そしてそれを繰り返すことも。

静かな革命劇

カゲヤマ気象台が日常の「良さ」を過剰に表現した演劇を行うのはなぜか? それは革命を起こすためではないか、ただし静かに。

人間の進化の歴史は、「より楽に生きられる世界」を目指していると解釈することができる。どんな時も迷わないように、どんなものでも手に入るように、できるだけ変わらないように。だが、もちろん世界はそのようではない。世界は私たちを裏切るし、私たち自身でさえも私たちを裏切る。ここで問題となるのは、その裏切りを私たちが隠蔽してしまいがちなことだ。

その隠蔽は、私たちが「より楽に生きられる世界」に向かう進化の流れの只中にいる以上仕方のないことだし、それは決して悪いことばかりではない(実際に便利だ!)。だが、そのことは容易に「正しさ」にも変容する危うい状態でもある。

この葛藤に対して、カゲヤマ気象台はを演劇を通して流れに身を任せるのではなく、ひと時でも抗ってみること提案する。流れているだけでは見落としがちな「良さ」によって。抗うことの意味とは何か。それは、辺りを眺められるようになることだ。新幹線ではなく、鈍行に乗るように。歩くように。そうすることで、私たちは裏切りを可能性として意識することが出来る。立ち止まること、他の方向に向かってみること、そして流れに乗ることとして。

これは、ほんの些細な世界への抗いだ。決して派手なものではない。ただ、その抗いなしに私たちは、例えば、いつかの未来に到来したUFOにふらりと乗り込むことはできないだろう。

これは演劇ではない俳優ブログ 7《2019.1.11》

西山真来(青年団)(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』)

カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演、西山真来です。

(俳優ブログを数日前に書いて)なんか言葉足りない、と思っていて

今日は〆鯖食べながら皆と話していて、そうか『これは演劇ではない』の人たちは「ルールありき、ではなくルールは自分たちが楽しむためのツールであって、全然作り直せる!」というフラットかつポジティブな地平にいるのか、と気づきましたのでここに追記します。
『これは演劇ではない』ので、戯曲家や演出家だけでなく俳優の一挙手一投足が世界に直で関与するイメージ、『これは演劇だ』としてもそうなんだろうけど、『ではない』のでリアリティー世界直結感覚増し増し、というスタンス。

〆鯖のほか、焼き鳥も食べました、レモンサワー発祥のお店で。みんなと何か食べるとプチ思想うまれるな。。


あと、前回書き忘れてましたがカゲヤマ気象台さんの戯曲について。
カゲヤマさんの戯曲は体を通すと(発話すると)ぐっちゃぐちゃになります身体が。なぜか全然台詞言えなくて困ってたんだけど、最近その、言葉が身体を通っていくときのグギギギっていう唸りに気づいた。なんたる強い言葉たち。と呼応する身体たち。

(と、言葉になっちゃった↑ので、これは捨てて次へ。もうすぐ本番。)

これは演劇ではない俳優ブログ 6《2019.1.9》

畠山峻(PEOPLE太)(青年団リンク キュイ『プライベート』出演)

はじめまして。キュイ「プライベート」に出演してます。畠山峻です。

昨年末くらいにみなさんのブログをよんで自分もなんか書かなくては!俳優ブログを書かなくては!と思っていました。思ってはいたのですが忙しさを理由に書くのを遅らせていました。

誰に頼まれたことでもないのに、書かなくては!と一旦思うと書くことから逃げるという現状にモヤモヤが溜まり続けます。そしてもう本番3日目が終わり、ようやくこの文章を書いています。

僕は何か立派な文章が書ける気がしないから書くことを怖がっていた気がします。人の書いたブログとか批評家さんの文章とかを読み、面白い。俺にこんなの書けない。俺には無理だと。尻込みし続けました。それに文字だけで判断される場所にエントリーするのはこわい。ネットだし。知らん人が見る。

でも僕はこう思いました。立派な文章じゃなくてもいいじゃないか。無様でもいいから書いてみるということをしてみよう。


僕は字を書くのが下手くそでとても汚い文字を書きます。小学生のとき国語の時間をぼーっとすごしたもので未だに書き順もあやふやです。だから手書きの文字を人に見せるだけでも負い目を感じます。でもスマホで打った文字はデータなのでとても綺麗です。結構それらしくなる。当たり前のことだけど。

ちょっと俯瞰ができるな!よし!文章って基本一方向にしか進まないようにできてるし、まちがえたら後で修正も出来る。それなりにきっとなんとかなるだろう。


希望!


舞台に立っていると色んな事が同時におきます。人の話を聴きながら体をうごかし何かに思いを馳せて、ふと発した言葉に対する相手の反応にまた反応する。順不同。連鎖は続きます。成功もあるし失敗もあるしどちらとも言えない時もたくさんある。それらは絶対に時間を戻して修正することは出来ない。でもなんかその複雑さ、不便さ、無様さに身を投じることに興味があるから舞台に立つということをしているのかなと思います。定期的に鏡を見て、定期的に人に見られないと僕はロクなことを考えないでしょう。独りよがりにただ老いていくのは本当に恐ろしいことです。そして健康にも絶対良くない。斜に構えた頭でっかちにならないために。居直らないために、僕は自分のために演劇をやってるのかなと思います。

今回の演出の橋本くん、劇作の綾門くんもちゃんと悩んでる様を見せてくれるから僕は信頼してます。「これは演劇ではない」と銘打ったフェスですが舞台上に立っている僕にとってはそんなのは関係なく、その日その場所で生まれたかけがえのない「演劇」です。

今回の上演くらい一回性を意識したことありません。よっしゃあ!次も頑張るぞ!ゆるやかに。

これは演劇ではない俳優ブログ 5《2019.1.8》

これは役ではない

―串尾一輝(青年団/グループ・野原)(青年団リンク キュイ『プライベート』出演)

「これは演劇ではない」というフェスティバルに参加する上で(それはもちろん観劇も含めて)、演劇とは何だろうか?という疑問は、文字にすると余りに陳腐になりすぎるほどにはすべての人が考える疑問だと思う。

それを考える際のベクトルは演劇というものへの関わり方にもよるところが大きく、僕の場合それはもちろん”演技とは何だろうか”という視点からに他ならない。
更にかみ砕いてみるなら、”役とは何か”ということになると思う。
実はコレ、ひよっこピヨピヨ俳優である僕の最近の専らの関心ごとであり壁である。
「これは役ではない…」そういう状態で舞台に立つことを求められることがしばしばある。
言ってることはわかるけど、じゃあ実際どうするのと。なることもある。

バイト先や美容室で「今度の劇?は何の役なの?」と聞かれて困ることがある。というのは俳優あるあるだと思う。演じる・演じられるものはリアリズムであるという前提が彼らにはある。
「何の役とかじゃないんだけどなー」と思うも、それを言うと鼻につく感じから逃げきれなさそうだし。
「人間とかじゃない役ですね。」なんて意訳を試みるも、意図しない印象を植え付けそうでそれも憚られたり。

そもそも演劇で、一貫した人格としての役を与えられるほうが少ない(これは人によるか…)

この、役ではない状態が孕む曖昧さというのは、僕のピヨピヨなりの経験から言うとかなり厄介、ともするとこの曖昧さが作品作りの停滞の主要因にもなったりする。
役ではない状態を扱う演出家はここの言語化と理論武装を最優先に行ってほしいと思うことも多々ある。これは愚痴ではない。

俳優は芸術作品の中に組み込まれる存在ではあるけど、俳優それ自体は芸術と技術と、論理と非論理と、可視と非可視と、その対極的な諸々を兼ね備えるとても曖昧な存在なんだと思う。作家だってそうだ、演出家だってそうだと言われるかもしれないけど、やっぱり最終的に観客の前に曝されそれを遂行する俳優が、最もその曖昧さを引き受けてると思うのだ。
もちろん、自分が俳優だからという掛け値あり。

しかしだからこそ、その曖昧さが曖昧というのは、曖昧を舞台上で具体にする俳優にとっては死活問題でもある。

ただ今、書きながらこの”役ではない状態”って、コンテクストの断層がそこかしこにありそう。

じゃあ逆に”役である状態”とは何だろか。
これは、その物語なり何なりの登場人物と舞台上にいる人物が、観客から見ても、演じている本人から見ても一致している状態である。と思う。
リアリズム、会話劇なんかは基本的にこれだと思う。
その人物がその人物として、その人物の言葉を喋っている。
ある意味一番楽な演技態でもある。これはもう悩むことは何もない。
ただその作品と、その人物の戯曲上の役割と心情にのみ想いを馳せていればいい。高速道路!を走っているような状態である。
その馳せた想いを実現できるかどうかはさておき、とりあえず演技態自体について悩むことはないだろう。悩むのはその先の出力のプランになってくる。

ザックリいうとこれ以外は、全部僕的には役ではない状態なんですけど…
(とか言うと、自分がリアリズムの縄にがんじがらめにされているだけな気もするんですけど。もともと演劇コンテクストは狭めだと思ってますし。)

舞台上に存在して観客に認知されるAという存在、しかしその発せられるセリフはAのものとは限らない。別の存在Bのものかもしれないし、作家Cの観客へ向けた手紙かもしれない。そしてそれを演じる俳優はもちろんAと同一ではない。
という頭がおかしくなりそうな状況が、僕のいう”役ではない状態”です。

昨今の演劇シーンでは当たり前に見られるシチュエーションではあると思うけど、これを”それらしさ”で煙に巻くことなくやりきるのはかなり難しいと個人的に感じていて、毎回毎回苦戦している。
全国の俳優のみなさーん!どうしてますかー!ヘルプミ!!って感じです。

僕は俳優は芸術家である前に職人でなくては!と思っているので、この辺の曖昧さに向き合うときに、自分語でも構わないから腑に落としたい気持ちがある。
雰囲気でやってしまったら、途端にそれは俳優じゃなくてもできる作業になるから。
念押すと、これは所作や発話のアイディア以前の向き合い方についてです。

ただ、だからか、やっていて楽しいのは最近明らかにこの役ではない状態なんですよね笑
自分の所属するグループ・野原ではこれを個人的にはテーマにしている。個人的には。

自分は演劇と何のゆかりもなく18年くらい生きてきたので、どうしても当初は演技を捉えるときステレオタイプな”なりきる”からスタートしてしまって、今、少しずつその縄を、時折恥ずかしい恰好になりながら解いているところです。

これは僕ではない。

と同時に僕以外の何者でもない。

ここもここではない。ということにしているけどここ以外のどこでもない。

これは役ではない。

そんなどうしようもなさに全力でぶつかって生じる反作用が演技の主エンジンだと思うから、これからも、そしてキュイ『プライベート』も、精一杯演技(僕(ではない))と向き合います。

劇場で出会った時は皆さんの考えも聞かせてください!

これは演劇ではないブログ 26《2019.1.7》

夢見る妊婦、母性の捏造

―松村翔子

現在、妊娠して丸5ヶ月。妊娠すると眠りが浅くなるため夢をたくさん見るようになる。イギリスでは妊婦が見る夢を「プレグナンシー・ドリーム」と呼ぶらしい。肉体的にも精神的にも変化の大きい時期だからか、プレグナンシー・ドリームは悪夢や不可解な内容のものが多い。

これは先日見た夢の話。

昼間、家で掃除機をかけている。フローリングの埃と髪の毛を夢中で吸い取っている。インターホンが鳴るが掃除機の音でしばらく気づかない。聞き取れた時にはもう既にチャイムを何度か鳴らした後らしかった。来訪者はドアをノックして呼びかける。
「すみません。すみませーん。」
慌ててモニターの映像を確認すると、白いパーカーを着た浅黒い肌の外国人男性が映っている。年齢は20代中盤くらい。
「どちら様でしょうか。」
インターホンのマイクを通して聞くと、
「こんにちは。僕はあなたの息子です。」
と、流暢な日本語で外国人の青年は答える。

はて。
こんな大きな子、産んだ覚えないな。
それに、ちっとも私に似ていないし。

「僕はブラジル人ですが、あなたの息子です。」
黙っていると重ねて丁寧に話しかけてくる。
「お母さん、覚えていませんか。」
ブラジル人の青年はとても誠実そうに見えた。

戸惑いつつ私は質問する。
「あなたのお名前は。」
「カルロです。」

そうか、カルロか。

なぜか私は無理やり納得してドアを開ける。全然知らない赤の他人なのに。でも息子だって言うから、ドアを開けてあげなきゃ可哀想だと思って。

身に覚えのない息子を部屋に招き入れ、何となく母親らしい振る舞いをしてみる。
「カルロ、お腹が空いたんじゃない。」
「うん、空いたよ。」
「オムライスを作ろうか。」
「オムライスは嫌いだよ。」
「そうか、カルロはオムライスが嫌いだったか。」
「そうだよ、嫌いだよ。」
ぎこちなかった。だって知らない人だから。どう考えても不自然なやり取りだったが、こうやって人は徐々に母親らしさを身につけていくんだろうと、間違った肝の据わり方で私はカルロに焼きそばを作ることにする。

「お母さん、ヤクルトがないよ。」
冷蔵庫を覗きながらカルロが言う。

ピルクルならたくさん入ってるのに。どうしてピルクルを飲んでくれないのだろう。味は確かにヤクルトの方がコクがあって美味しいかもしれないけど、ピルクルの方が経済的に優しいからできればピルクルを飲んでもらいたいのに。私は少しカルロを煩わしく思う。子供って面倒臭いなーと、ピーラーで人参の皮を剥きながら軽い溜め息をついたあたりで目が覚めたのだった。

寝室から出ると、夫がちょうどピルクルを飲んでいる最中で、その経済的に優しい光景に安心した。彼は「飲む?」と言いながら冷蔵庫からピルクルを取り出そうとしてくれたが、朝は少しつわりが重いので遠慮した。

母親になることへの戸惑いはまだあるが、お腹の子は順調に育っている様子。

母性は急に生まれるものではない。徐々に培っていくものだと思った朝だった。

これは演劇ではない俳優ブログ 5《2019.1.6》

西山真来(青年団)(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

他のメンバーのブログにある通り、稽古場では舞台上でのありかたにいろいろ言葉が尽くされて、初めての私にはすべて新鮮で難しくて面白い。

私が一番好きなカゲヤマさんの演出は「相手の話を自分が言っているかのように聞く」です。
日常生活で他人の話を聞く時、自分の文脈に合致してるかどうかを判断しながら聞いてしまうことが多い。けどそれって本当に聞いてるって言えるのかな?て思ってたのですごく腑に落ちました。
リアルタイムで相手が見ているだろう視界を見よう、とする聞き方。この稽古場の方々は皆さんその態度で、細かい感覚を能動的に共有しようと言葉を尽くすしふざけるしですごくすごく楽しいです。
今日は稽古帰りに牡蠣 を食べて、日本酒と合わせて最高…というチル、をみんなで味わいました。よかった。

これは演劇ではない俳優ブログ 4《2019.1.5》

キヨスヨネスク(カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』出演)

お初にお目にかかります。そして明けましておめでとうございます。 俳優のキヨスヨネスクと申します。俳優として僕なりにカゲヤマ演劇について思うままに書き散らした雑文、覚え書きを載せます。 カゲヤマさんのテキストや演出を受けて演じながら、僕の中でイメージしてきたことについて書きます。

録音された自身の声を聞くとき、それは不気味なものとして聞かれる。あのゾッとするような感覚。あの声は、他人が聞く私の声と同じであって、不気味な声は私の本当の声といえる。私は、録音を通さずに自身の本来の声を聞くことはできないし、普段耳にしている声は、私の肉を通して、或は骨を通したものだ。本来の声を聞く為には、一度、自身の肉と骨から分離しなくてはならない。私でありながら私の知らない、それは無意識の声として不気味に立ちあらわれる。 例えばカゲヤマ演出において役者に求められる試みは、この録音を介さずに自身の本当の声を聞くようなものではないかと思う。しかし、私が私の知らない声を聞く、同時に発しなければならないというのは、至極困難なはずだし、それは一体どういうことなのか。

カゲヤマさんは「自身の内面化された言葉、身体からでた声」ということを言う。それはこの私の肉の響き=近さを単純には意味しない。そのとき求められるのは、テキストから読み取れる文脈や感情を前提とせず、事後的にそれらが認識されるように、むしろそれらは、声を発した主体に対して、到来する、むしろその到来を期待するという状態に自身をおかなくてはならない、ということだ。「言ってみたらこんな感情になった。こんな声が出てしまった。」という風にカゲヤマさんは例えてみるが、そこには些細な、そして多様なニュアンスが含まれていると思う。(原理的に人間は、思考や感情があってから話すこともあれば、話していくうちに、ある思考や感情が生まれることもある。) それは、私は私の声をほとんど知らないのと同じように、無意識的な「それ」が到来するのを感知し連続させ紡いでいけるような、受容態としての身体の状況をさす。「状況」というのは、つまり偶然を誘発しうるようにセッティングすることだ。 それは矛盾しているように思えるかもしれない。 しかしそこに、カゲヤマ演劇における、リアリティがある。

声というものをある種、占有するように、同一性のもとに確保しようとするのが、演劇における作家であり、演出家であり、俳優自身が己に課していることではないかと思う。(声の占有化は演劇だけのことではないだろうけれど。)声の持つ性質は、それがある固有の身体を索引させ、同時に、ある人格をその象徴として呼び出す。あるべき身体と人格をその声に想定しつなぎ止めようとする。声は、固有の身体=人格という関係に担保されている。その前提の上で、声の占有化とは、この声を発する者との同一化、つまり、そこに 「自発的にしゃべっているこの私を見よ」というフィクションがある。しかし同時に声というのは、確定できない。 声というのは、その内から常に消滅しつづけ、声はすぐさま死に、そしてたちどころに形容詞となって弔われてしまう。ゆえに声は、亡霊的であるといえるのだ。

カゲヤマメソッドにおいて、声は常に揺らいだままである。そしてその不安定さが、そのまま身体の表明になっている。(カゲヤマ演劇の描く存在の不安は、この声の不安定さ、不確定さと深く関係しているように思われる。)「身体から出た声」というとき、重要なのは、私のこの身体から出た声を、その主体たる私自身は、把握できない、ということだ。カゲヤマメソッドにおいて、身体から出た声は、私の知らないまま、事後的にその様相をわずかに見せるにすぎない。この私の声は不気味なものとして、来たるべく予感されていたものだ。あくまで予感であって、それが現象としてある形を得て達成されるかはわからない。むしろこの予感の只中に身体があると言えるかもしれない。例えばあらかじめこういう声で喋ろうと、予定通り の声を確定的に出して話続けてしまうことは、あまりに主体に引きつけすぎた作られた声になってしまう。 しかし、このメソッドにおいてさえ、稽古をしていくうちに蓄積され確定的で確実性がましていくことは必然としてある。しかし、俳優は出来るだけそれを手放す状態になくてはならないし、常に違う声が出てしまう可能性を保持しないといけない。確定し落ちつかせてはいけないのだ。演劇は、何度も再現しなければならないが、それは個別に詳細に見れば、その都度差異があることは事実だ。カゲヤマメソッドは、時に極端にその再現の不可能性をも拡張する。この不確定と確定の間の差異に、新たな豊かなイメージが浮き立つように期待するのだ。 俳優はその期待へと自らを投企するようなものだと思う。

内面化された言葉、身体の声は、私の中に蓄積されている。しかし、私はそれを知らない。知らないまま表出し、その痕跡に事後的に気づくしかない。事後的でありつつ、文書や発話の連続の上で、その時間制は、まるでスローモーションのように引き延ばされた今の只中であり、痕跡は今まさに到来するかもしれない。この痕跡は、私の声を私が聞くという、発する者と聞く者の違いに等しくこの時からすでに分たれている、この差異にすでに存在し、蓄えられている。私が演じる時、まるで話すことと聞くことの意識と無意識のズレを意図的に引き起こし、その時差を無理矢理引き延ばされたような感覚になる。

ここで、例えば、声優の話をすると、私の知っている自身の声と、録音された私の声のギャップを解消する為に、声優は当初、繰り返し録音された自身の声を聞くという。そしてそれが不気味さや違和感に慣れてくると、その聞こえのギャップを埋める声をつくり出していく。それは私が聞こえている声と他人が聞いている声が一致するような声だ。それは作り声である。アニメの声優はより記号的に作りかえていく。特にそれは私のこの固有の身体性を極力打ち消そうとし、そうしたノイズがキャラクターを疎外しないように、自身を匿名化していく作業だといわれている。匿名的であるから、身体=人格を声から分離させることで、音響メディアを通して、視覚的な動く対象(アニメ等の動く図像)など、あらゆるものに憑依できるといえなくもない。

ところが、演劇というものは、この身体の現前性において、はなから私という固有の身体=人格と、想像 上のキャラクター(役)とを束の間、同一化してみせる。しかし同時にこの二重性(例えば、私はキャラク ターAである、と同時にAではなくキヨスヨネスクである。)において、だからこそ演劇的といえる。通常 演劇の演技においては、私の声の無意識はある程度是正させられていき、演技の上での、演技の記号へと向かわせる。いずれ他人の見る姿に自身を方向づけ、それを内面化していく。カゲヤマさんは、そういった 個々人が内面化してきた演技の声を否定はしない。しかし、それもまたなるべく相対化させていく作業をしているように思う。このリアリティというのは、私を超えた私に出会い、それがあくまで演劇というフォー マット(フィクション)と摩擦を起こす時、客観的に何かのアウラをつくり出してしまうのではないか、ということだと思う。カゲヤマメソッドは、その声に、極力その俳優個人の身体性が現れるための方法である。「無意識を意識的に表出せよ」というような困難さに近い、この矛盾した方向に立つ時におこる摩擦、 その揺らぎに、立ち上がる何かがある。それはノイズにまみれた身体の声だ。

カゲヤマメソッドにおいて、私が発した声は、私の知らない声として、ある種他者の声として聞こうとする。さらに事実として、自身の聞いている声と、他人が聞いている私の声(録音を通した声)は、別ものと考えることはできる。声そのものにはすでに、「私という他者の声」であるところの複数の声の可能性が内包されていると言えるかもしれない。自らが発しながら複雑にとらえどころのない、たちどころに帰属先をもたなくなるような声の複数性。しかし、演劇というフィクションの上にそれを乗せ、表現として成立させるためには、無意識に自分をさらす裸の状態になることはできない。カゲヤマさんはある程度の演劇的な振る舞いをその都度要求する。それは時に矛盾するように思えるが、重要なのはカゲヤマ演出においては、ある一義的なベクトルによって確定させるのではなく、常にまるで対極的ともとれる事柄の間で揺れ、時に綱引きのような緊張を強いられるのだ。宙づりにされるような、足下の固定されない居心地の悪い状態にあえて俳優の身体はおかれるということだ。

(カゲヤマ演劇において俳優は時に、まるで眠りながら動き、夢を見ているように振る舞い、言葉を発す る。その時に、例えばシュルレアリズムにおける夢の「真実」について思いだす。 夢の中で例えば黄金の噴水を見たとする。しかしそれは、私の中ではどうしたって黄金の噴水であるけれど、 事実はアゴラ劇場であったことにあとから気がづく。私の中で確かに黄金の噴水として立ち現れたイ メージは、目が覚めた時、よくよく見えていた姿形はアゴラ劇場であったというようなことがあるのだ。 イメージが取り結ぶ夢の中の実感は、黄金の噴水なのである。これをシュルレアリズムでは 真実と呼んだ。この間のズレに見いだされる言葉の実感。例えば俳優が言葉に臨む態度はこの可能性へ開いていくと言ってもいいのではないだろうか。 )

演劇の中で、自身の身体とキャラクターとを統合しようとする構造に、むしろその起源をさかのぼるように、他者の書いた言葉をもとに、この固有の私の身体のノイズ、無意識の声に聞き入らなければならないという、逆説的な状況をつくり出すのが、カゲヤマメソッドであると思う。 さらに言葉との関係でいえば、 カゲヤマさんの書いたテキスト、つまり他人が書いたテキストの言葉と向き合うこととはどういったことなのか。書かれたテキストもまた作家と切り離され、原理的に言葉の持つ無数の文脈にさらされていることを確認する。書かれたテキストもまた私であり他者であり、俳優の声も無数の声の現れとして相互にポリフォニックに反響し合う。特にカゲヤマさんのテキストにおいて、登場人物の言葉は、出来るだけ自らを開示しない、人格を立たせるような色は少なく、台詞によるキャラ分けも最小限で、匿名的な言葉ともいえるような振る舞いである。(もちろんそれぞれの役には役割があるし、発言内容の質も異なる)その言葉に自ずと 俳優自らが人格を読み取るのだが、その時言葉に感情や人格的なものを乗せようとするのではなく、その俳優の内にあるそれらが自動的に引き出されてしまうように、それが俳優の身体を通して客観的に見えた時、 「その人の言葉」として現れるように書かれている。俳優と作家の間に生まれるキャラクターを介さず、作家によって書かれた言葉が、直接俳優の言葉として、その身体に染み出し滲み出してくる。カゲヤマ作品において、声は書くように存在し、読むように存在するのではないかと思う。私の内部、身体にすでに蓄積されノイズのように刻まれた声と言葉が、テキストの言葉と響き合い、まさに身体のエクリチュールとして、 エクリチュールの声として、 身体から滲むように生成され、空間に広がっていく。

演劇においては、想定したキャラクターに対して、自身の身体を近づける。キャラクターの声と自身の声を統合し同一化させる。カゲヤマメソッドは、固有の身体=人格の事実に立脚しながら、されど声の占有と距離をとろうとする。私が私のままでありながら、私以外のあらゆる声としての可能性に開かれている、ためには、私の複数化、私のコントロールの困難な身体の声、無意識の声を召還すること。そこには、本当の声や偽物の声だといった対立を超えた、「超自声」(すみません、僕の考えた造語です。)が生まれるのではないだろうか。この逆説性。他者の視点を内面化して自身の意識下で声を統合するようなフィクションではなく、声の統合を保留し、自分という他者に視点を向け、そのギャップによって、複数性、多声性を呼び込む。(不思議と、この本物と偽物、自と他の境界を溶解したところに、 僕は複製メディアとの関係をイメージする。)他人の書いた言葉をもって、自身の固有の身体を内省的にフォーカスすることで、複数性、多声性に開かれるとは、極めて逆説的である。これは「私はAであり、Aではない私」という二重性を超えて、原-演劇的といえるのではないだろうか。 主体的に声をキャラクター(役)に寄せていく、或は、キャラクターを主体に引きつけて話すように、固有の身体と、キャラクターとを同一化することで声を統合する演劇に対して、固有の身体(「私」)の現前性を深化させ、聞こえのギャップを拡張、あるいは維持することで、声の近さと遠さの両義性(私という他者)を表面化させ、逆説的にあらゆる「他者」に開かせようとするカゲヤマ演劇。それは特定のキャラクターを立ち上げるような動性ではなかった。

ところで、複製される音響メディアと、演劇という一回性のメディアとでは原理的に違うのだが、ただ、 僕は、カゲヤマ演劇が立ち上げるイメージ空間には、この複製メディアのもつ複数性と、その時間的、空間的広がりをどこかで感じとってしまう。 生成され、事後的にその痕跡を聞き取らせる。それはむしろ、そういった複製メディアと人間の存在にまつわる関係をイメージ空間として立ちあげようとているのではないかとさえ思うのだ。 私がつくり出しながら、あたかも私に帰属しないような、本物と偽物の撹拌に、例えばシュルレアリズムが聞き取ろうとした声があったように、それが複製技術と深い関係であったように、カゲヤマ演劇の態度はどこかで共通しているように感じる。

さて、ロラン・バルトのいう「声の肌理」とは、声の超分節的側面、固有の身体がもつ、「それ」としかいいようのない、言葉の意味内容とは別に立ち上がる個人の現れである。この声のテクスチャーとも言うべき身体性の現れを、バルトはパンゼラという歌手のSPレコードの中に見いだした。声は発したその瞬間に消え失せてしまう。しかし、録音された声は残る。それでも尚、不完全なメディアであるところのSP盤の、当時の 技術的な側面によってもたされるノイズ、すなわち対象以外の音、空間性までも無差別に記録しながら、尚かつ、レコードの材質やその劣化によってもたらされるそれらは、あの盤に刻まれた溝に響くノイズの海であり、その海に立ち上がる身体の声は、この時間制の中で、今まさに失われ続け、消えていく過程である。 カゲヤマ演劇がたちあげるものは、このアコースティック録音のSPレコードのような時間性と空間性の中にある、人間の存在の痕跡のようなものではないだろうか。

これは演劇ではない俳優ブログ 3《2019.1.4》

山縣太一(オフィスマウンテン『海底で履く靴には紐がない ダブバージョン』出演)

これは演劇ではない俳優ブログ。僕は今回作家で演出家でもありますが俳優でもあります。なので俳優ブログも書きます。俳優ブログっていっても俳優は書きづらいかもしれません。だからこそ私が筆を持ちます。えーと、みなさん唐突ですがいい俳優ってどんな俳優でしょうか?台詞を間違えない俳優でしょうか?演出家の言う通りに演出家の思い通りに舞台に立つ俳優でしょうか?付き合いの居酒屋で気を使いまくる事でしょうか?僕は違うと思います。僕は自分がいい俳優かはわかりませんが僕がやっている作業をこっそり秘密に教えちゃいます。僕はまず何度も台本を読みます。そして全部の台詞を覚えます。間違っても自分の台詞だけ覚えたりしちゃ駄目です。俳優は舞台に作品を立ち上げに行くんです。自分の台詞を言いに行くのではありません。俳優の多くは自分の台詞しか覚えない事を知った時はかなりショックでした。だから演劇ってつまんないんだとすら思いました。全部の台詞を覚えたら自分の手で文章を書いてみます。台本に書いてある言葉を自分なりに翻訳して書きます。そうすると似てるけど異なる台本が2つ出来上がります。自分が書いた方の台本を自分の振り付け用に使用します。そうすると言葉と身体がズレたりして稽古が非常にクリエイティブな時間になります。みんなこのやり方パクっていいからね。俳優は言葉を発話する表現者です。言葉を持っていなければ俳優を継続して続けていくのは相当しんどいと思います。その時その時の現場に体や心を合わせていく作業は自覚症状がないまま気づけば手遅れになってしまう事も。演出家との関係も上下関係にしないで横横関係にしないといけません。横横関係つまりフラットな関係のために俳優は言葉の理解度を自分なりに磨く必要があります。これは馬鹿とか頭がいいとかは関係ありません。意識さえすればいいのです。もちろん本を読んだり言葉に日常から触れていた方がいい場合もあります。俳優は台本が手元にあるならまずは書いた人よりも一回でも多く読む。そして自分で書いてみる。これだけでも全然変わってくると思いますよ。俳優の子達は騙されたと思ってやってみてね。あとお客様の方々へ。作品を観ていい作品だなと思ったら俳優を褒めてあげてください。俳優は大変です。作品がよければ演出家が褒めちぎられて作品が悪ければ俳優がひきちぎられる。俳優を讃えてあげてください。勇気を持って舞台に作品を立ち上げにいく姿勢の美しさを醜さをどうかどうか褒めてあげてください。

これは演劇ではない俳優ブログ 2《2019.1.3》

福原冠(範宙遊泳)(ヌトミック『ネバーマインド』出演)

はじめまして、福原冠です。
ヌトミック「ネバーマインド」稽古初日から本番初日までの34日間。
上から読むも良し下から読むもよし。
それもあなたの選択です。
それではどうぞ。


2019.1.3 日付変わって今日が初日。「ネバーマインド」素晴らしく突き抜けた時間と空間になりますように。

2019.1.2 昼まで寝る。ゴロゴロしながらalgernon cadwalladerの動画を見る。ギターの人が指で弾いてるのに妙に勇気付けられる。そうだよね、別に弾きやすいように弾けばいいんだよね!新しいDJミックスを録ろうと試みるも気分が上がらず。半年前はいいと思ったアイディアが今はかっこよく思えない。夜は台本のことぐるぐる考える。考えすぎるとまずい気がするので程よく。

2019.1.1 朝からアゴラ劇場。舞台監督鳥養ちゃんと何してるんだろうねって笑っちゃった。場当たりしてゲネプロして稽古。照明さんの見たことない照明に笑ってしまった。みんなで初詣もした。小吉。攻めるな着実に行け!引っ越すな!だそうです。

2018.12.31 若干風邪気味。Tommy GuerreroのRoad to nowhereが年末の気分にバカハマり。夜に復活して溜まったメールを返したり出したりサウナかましてるうちに年越し。死ぬほどクラブに行こうか迷ったけど翌日小屋入りなの。

2018.12.30 ヌトミック稽古。2幕と3幕をひたすら稽古。最後のピースがはまった感じ。よっし。夜はトリウッドにてさんぴんのドキュメンタリー映画「あなたの人生、いただきます-DOCUMENTARY of SANPIN31-」トーク。事前に見ていなかったのでこの日が初鑑賞。トーク開始0秒ではらはら泣いてしまった。すんません。。もう嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。さんぴん 終わってから自分の中に湧き上がるものがなかったらどうしようという不安がずっとあったけど、映画を見てそんなこと考えてる場合じゃないと吹き飛んだ。絶対にさんぴんはやる。何かが思いつける予感はしている。もうそのインスピレーションに従う。朝までカラオケに行きラーメンを食べみんなと別れた瞬間にリバース。あざます。

2018.12.29 この日も昼コムナルカ夜ヌトミックという日。どちらも通した。コムナルカは通して分かってきたことがある。曖昧な状態なものも一応の完成を目指すことが大事。芝居の稽古やれてるって感じれると嬉しい。まだまだ時間はあるでござるよ。この日がコムナルカは年内最後の稽古。いま劇場で試せてまじで本当によかった。ヌトミックは2幕がより鮮明になってきた。積み上がっていく感じが楽しい。3幕も深まった。夜はさんぴん制作さんと電話。上映会の様子を聞いてホクホク。夜中にPenfoldの動画を見て無茶苦茶感動する。I’ll take you everywhere すんげー名曲。。。

2018.12.28 昼コムナルカ稽古。この日と次の日は本番の会場であるVACANTで稽古。ありがたい。もう様子を見るのやめたので容赦なくいく!!どうにか芝居の稽古まで辿り着きたいという面持ち。選曲といいつつ70曲ぐらい持ってきてしまったけど、いくつかハマった瞬間はあった。おっし。夜はヌトミック稽古。3幕を中心にやったと思う。やりながら色々と考えた。

2018.12.27 コムナルカ稽古。可能な限りくっきりできることをくっきりさせてみる。残り時間は短いけど、時間かけた甲斐あったねっていうラインが見えてきた。ゾーシチェンコから「俳優たちの夜」というタイトルが指し示すものにたどり着きたい。こちらも色々と見えてきた模様。やるべきことの方向性が見えてきた模様。帰りに新宿のタワレコに寄ってあれこれ。新宿と渋谷のタワレコを世界遺産に!転換に使えそうな曲を選曲して寝る。

2018.12.26 ヌトミック稽古。できているとこまでスタッフさんに見せる日だった。額田くんの感じている「いい予感」を言語化しつつ、自分が考えていることを溶かしつつ進めていこうってなったと思う。一気に前進してる感。いい逆算ができそう。紛れもなくこれは演劇だ。キュイの作品も見る。果てし無くいろんなこと思ったけど見てよかった。突き抜けよう。

2018.12.25 またもや昼に観劇。前回公演のDVDもゲトる。終演後、フェラ・クティ(だったと思う)が流れてるのもあがった。あとそうこの日は10ぐらい年下のHくんと音楽の話やら写真の話やらいっぱい話した。お互いのおすすめを教えあうのも楽しいけど二人で二人の知らない人をディグしてくのも楽しい。Hくんにも今日見た劇団を押す。押しつつ演劇って見ないと分からないからな、さっきまで話してた音楽みたくさっと紹介できないのストレスだなってなる。もっとユーチューブとかで見れたらいいのになと思った。

2018.12.24 あ、違うこの日がシーンを繋げた日だ。もっと考えたいしもっと試したい、いまはひたすらにそんな感じ。夜のこと、その周辺のこと、できたらその先のこともタッチできたらなとも個人的には思ってる。転換の曲はいろいろアイディア持っていこうと思う。この日も途中抜け。さんぴんの映画のこともやりとりを少しづつ。お客さん入るといいなあ。夜はヌトミックのことをぐるぐる考える。気づいたこといくつか。立つ上での指針がぐっとできたきがする。深夜にアガリスク塩原くんにライン。ごめん絶対に寝てるけどごめんと思いつつライン。

2018.12.23 コムナルカ稽古からの打ち合わせリベンジ。稽古はできてるシーンをざっくり繋げてみる作業。荒削りをブラッシュアップさせたい欲が半端なかったけど途中抜け。くそー!打ち合わせは某劇場の人と。某劇場の人、かっこいいなあと思っていたら実は俳優さんだった。さんぴんのこと、ものすごく喋った。いまどこでやってみたいか、何に興味があるのか。でもさんぴん、秋のツアーで出し切った感がやっぱりあって、若干まだ抜け殻気味。いろんなものを見て聞いて考えよう。それしかないとも思ってる。夜は有楽町にご飯を食べにいった。地上うんメートルの空の上で食べるフォアグラとシャンパン、からの地上0メートル駅近で食べる鮭とばとホッピー。これぞ極上のワンループ(QNくんのリリック参照のこと!)こういうことたまにしないと死んじゃう。やっぱり食べるって面白いし食べに行くことって面白い。食べてるそこに景色があれば背景もある、そこにかかってる(あるいは演奏されてる)音楽がある。

2018.12.22 夜コムナルカ稽古。グループワーク、前回ざっくり作ったもののお披露目。なんとなくスカった印象。悔しい、、!コムナルカの組み立て方が自分の中でまだ見えていない。ちょっと焦る。

2018.12.21 朝から打ち合わせ、のはずだったんだけど、財布を忘れて打ち合わせ場所の横浜までたどり着けず。マジですみませんでした。反省。でも夕方には髪を着るために結局横浜には行くっていうね。夜はヌトミック稽古。今日で色々と考えるべきことが分かった気がした。こういう作品ほど出る人は考えなきゃ。分厚く分厚く。役者の人が立つってどういうことか。考える考える考える。

2018.12.20 とある方から本をいただく。ベテラン俳優さんがベテラン俳優さんになるまでのインタビュー集。これがもう、ちょっと気軽に読めない濃さ。厚さ。いや熱さ。挑戦しなきゃ。勉強しなきゃ。内山さんありがとう。。夜は吉祥寺でDJ。4410さんとのB2Bはいつも楽しい。でもハードコアかけるときの自分にちょっと飽きてる自分もいて、そろそろ何かできる気がする。ノリもいいんだけどもっとなんかしたいなあ。パブリックアドレスはいつも最高。そろそろ新しくミックス作りたい。

2018.12.19 鎌倉に行った。某イベント用に動画を撮るため。12月の由比ヶ浜は風が強くて笑っちゃうぐらい寒かった。真冬の海に飛び込んだのは人生で初だと思う。夜は清澄白河で日本舞踊を見た。俳優さん3人による会。いつお稽古お稽古してたんだろうというぐらいに超絶忙しいお3人。すごかった。。清澄白河でも沖縄料理屋に。沖縄で食べれなかったスーチカーを注文。

2018.12.18 昼は範宙遊泳の稽古。稽古というかあれはなんだ、打ち合わせ?そのままラジオ収録。夜はヌトミック稽古。2幕を本格的にやりはじめたはず。この日あたりからほんのりと作品について疑問が湧きはじめているはず。ぐるぐるし始めます。

2018.12.17 レコード屋に行ったり楽器屋に行ったりプールに行ったり喫茶店に行ったりした。

2018.12.16 昼はコムナルカ稽古。グループワークをひたすら。コメントを可能な限り削って物語を立ち上げる時、語られるその言葉の選択と発語が気になった。卓磨さんのかける言葉はそれが些細なものであっても勇気が湧く。夜はヌトミック公開稽古。衣装をみんなで決めたり、決まり切ってない部分をお客さんに聞いてみたりしつつ緩やかな緊張感の中でぐんぐん進んだ。3幕のアイディアも試せてよかった。額田くんは決断のスピードが早い。選ぶのも早いけど捨てるのも早い。終わってからみんなで沖縄料理。さんぴん終わってから飲み行こうってなったとき沖縄料理あるとけっこう行きたい感じになる。さんぴんハイでいいかんじになる。

2018.12.15 夜はヌトミック稽古。1幕と3幕もタッチしたはずだけど、あれ、2幕の記憶がない。。夜は「うまれてないからまだしねない」台本再び。あれこれ妄想。さんぴんのウェブいじったのもこの日かな。

2018.12.14 朝からオーディション。そこから北千住で映画を見て夜は熊川・埜本とビール。イギリスから帰ってきたばかりの幸良さんから色々聞いてやっぱりイギリス行きたいなと思う。最近のこと来年のことを話す。最近のこと来年のことを話す。

2018.12.13 お昼に観劇。できることならお芝居とか映画とか夜見たい派なんだけど、仕方なし。お芝居って別の誰かになれるから面白いよなって何を今更みたいなことを改めて思った。今はその距離が遠ければ遠いほど面白いよなって感じる。越えられない壁を越えようとする様がいいって今はそういう気分。この日で大掃除及び若干の模様替えは完了したはず。フリーペーパーなどざくざく読んだ。

2018.12.12 朝からニュースで気が滅入る。夜ヌトミック稽古。撮影は多分この日だったかな。1幕を主に稽古。こうして振り返ってみると1幕にかなり丁寧にやっているのかもしれない。額田くんの地元の友達ケイスケくん(名前違ってたらすみません!)もこの日あたりに登場したと思う。ケイスケくん、面白い。多分この日は夜中に友達と飲んだ。4時ごろまでいたと思う。

2018.12.11 昼はさんぴんのこと考えたりしつつ、ヌトミックの準備。「うまれてないからまだしねない」の台本も読んだと思う。夜はヌトミック稽古。16日の公開稽古で何をするか、それとこの日はもしかしたらテレビ撮影用の稽古もしたかもしれない。

2018.12.10 この日も狂った様にものを処分し、いらない服やレコードや本などを整理したりしたはず。読んでない謎のフリーペーパーとかもこつこつ読んだりしたよきっと。ギターもちょっとは弾いただろうさ。昔のドラマも見たたかもしれない。あとそうだ、さんぴんのことを詰めているはずだ。

2018.12.9 この日もお昼にヌトミック稽古。もしかしたら1幕を通して2幕に突入したのがこの日だったかもしれない。この頃はまだ体力使う作品だなあぐらいにしか思ってないかったと思う。おそらくこの日ぐらいから部屋の大掃除を始めていると思う。今年(もう去年だけど)はもうオフらしいオフがないから今のうちから大掃除。いつからか物をひたすらに無くしていきたくなる衝動があって、この時期はかなりその気があったと思う。

2018.12.8 昼はヌトミック稽古。この日も1幕をゴリゴリやる。夜はコムナルカ稽古。コムナルカはミハエル・ゾーシチェンコの短編を演劇に変換するところから創作をスタートさせる。音楽を演劇に変えていく作業と小説を演劇に変えていく作業は使う脳みそが似ているで違う。帰り道、こうなったらいい、ああなったらいいみたいな話を沢山したと思う。

2018.12.7 お昼は観劇。奮発してA席。本当に本当に良かった。カーテンコールで思わず声が出てしまった。住んでる世界の違いというか、見ているものの違いというか、自立した俳優とはこういうことだよっていうのを突きつけられ続けたこの日の2時間半は今後しばらく杭のように自分の中に残ると思う。歳を重ねたらいつかやりたい戯曲。夜はコムナルカ稽古。

2018.12.6 コムナルカ稽古に合流。こちらは1月11日初日。去年の東京芸術劇場のワークショップで出会ったメンバーが立ち上げた団体。参加できる稽古が限られた中で何ができるか、そんなことを考えつつ、ひとまず一生懸命お稽古。

2018.12.5 おそらくこの日から本格的な稽古が始まった、はず。1幕を試す。下手したら小学生ぶりに縄跳びを飛ぶ。縄跳びってめっちゃ疲れるじゃん!!

2018.12.4 大きめの脱感のようなものに襲われていたと思う。こういう時はダメになれるだけダメになろうって感じだったはず。

2018.12.3 中学校のワークショップ最終日。修学旅行の思い出を演劇にするというもの。ひたすら稽古をして最終発表。アドレナリン出まくった。最後、コメントを求められたけど今ひとついいこと言えず。勉強もスポーツも絵も音楽も特に秀でることなく、かといって面白くも独特でもない、そんな人でも何かを演じてる時だけは輝ける、輝けなくともなんか分からないけど心がほんのり汗をかく、そんな経験人生でそうそうないぜ!何今の!?ってなってくれれる人が一人でもいたらいいな。永遠に掴めない瞬間に手を伸ばし始めたときから表現というのは始まるのかも。なむなむ。。

2018.12.2 夜にヌトミック稽古。自分たちで現代音楽を作ってみようの日。あくびをする間だけ体を屈むことができ、演奏者全員が床に寝そべってため息をついたら演奏終了、といった作品を作ったと思う。次にそれをどうやったら演劇として上演できるかをやってみる。父母娘の3人の話で、父母が先に死に娘もその後に死ぬ、みたいな話になったと思う。もっと詰めれたと今でも思う。中東の音楽のドキュメンタリー映画を見るも心地よすぎて途中で寝たのもこの日だったと思う。

2018.12.1 多分だけど稽古がオフになって映画を見に行ったと思う。うわ、何を見たんだっけな。。坂本龍一のドキュメンタリー映画を借りたのはこの辺りだと思う。

2018.11.30 稽古初日。元々10分だった作品を60分にするという額田くんの戸惑いと興奮したのを覚えている。額田くんが紹介してくれた有名な現代音楽の作品(木の枝をポキポキ折って細かくして手の中でふって投げるというもの)を「演奏」し、「上演」もしてみる。行為が伴う現代音楽はそれだけで演劇的。でもそれを演劇として上演するならどうするか。うんうん考えてなんだかラブストーリーみたいな作品を作ったと思う。

これは演劇ではないブログ 25《2018.12.31》

山縣太一

これは演劇ではないブログ。先日公演を終えて腑抜けた状態ですがお金を俳優に払ってしまったので嫌々ながらこの年齢でこの師走にバイトしたり一人芝居の稽古をしている呆けたおじさんです。先行きの不安は拭えないのですが深刻にならずに深呼吸して身体の隅々にまで意識を向けていたいです。今回参加させていただく演劇フェスはこれからも形や骨格を変えながら若い子達が続けていけたらなと思います。もちろんおじさんやおばさんも。理想は俳優が中心になってこういう規模は小さくても表現は大きいフェスを盛り上げてほしいな。俳優のみんなは字を読め。字を書け。字を身体で描け。そんな俳優が増えてくれれば僕の老後は楽しいだろうな。

これは演劇ではない俳優ブログ 1《2018.12.26》

深澤しほ(ヌトミック)(ヌトミック『ネバーマインド』出演)

ダイソーで見つけた便箋は、私が先日、後輩からもらった手紙と同じ柄をしていた。ちょうど文通が流行っていて、色々な便箋を集めては、どうでもいい出来事を書いて友人に渡した。見つけた便箋が、そんな手紙に使われた便箋だったらよかったのだけど、後輩が突然渡してきたものには「好きです」の文字が書かれていた。

返事は決まっていたけど、どういう言葉で伝えたらよいか考えているうちに数日は経っていた。学校の帰り、母の迎えを待つ間に立ち寄ったダイソーで見つけたのが、小人が踊る絵柄の便箋だった。


ところで、女子がバレンタインにかける費用は、母親の力がなければ賄うことができない。私の通っていた学校はアルバイト禁止で、毎月のお小遣いだけでは思い描くバレンタインチョコを作ることはできなかった。

母の協力を得て、無事に全ての準備が整ったとする。ここからのスケジュールをいかにこなすかが勝負。

バレンタインの前日が平日の場合、部活が終わって即帰宅し、バレンタインチョコを完成させる。手際よく。失敗は許されない。

睡眠時間はしっかり確保しないと翌日の体調に響くので23時には就寝。翌朝、早く起きてラッピングを完成させる。

とにかく、バレンタインにはお金と時間と労力がかかる。私のレベルでなにが作れるか、どんなラッピングにしようか。

どちらかといえば完璧主義の私は、1つのイベントに対して込める熱量が周りの友人より高かった。合唱コンクール、学園祭、部活動、中途半端に参加している友人をみるのが嫌だった。

好きな相手に思いを込めたものを送るとき、学生の私は、それはお金と時間と労力がかかることなのだと思っていた。

だから、ダイソーの便箋で書かれたラブレターに、私は違和感を覚えてしまった。ダイソーの5枚組セットの便箋だったら、1セット20円。いや、もしかしたら何度も書き直したかもしれない。

文章に掛けた時間は私にはわからない。でも、その文章を乗せる便箋はもっと選べたんじゃないだろうか。本当に彼は私のことが好きなのか。ダイソーの便箋でもいい女だと思われたんじゃないか。学校の近くの文房具屋 の方が、多くの種類の便箋があったはず。

ダイソーで、小人が踊る便箋を見つけてしまった私はショックだった。だから今でも記憶に残っている。


当時に戻れるなら、このような思考を持ってしまった私を本気で怒りたい。

まず中学生男子が便箋にこだわるか。好意を相手に伝えようとすること自体がすごいことなのに。好意を寄せた人がこんな思考をしていた女だったこと、本当に申し訳なく思う。

あれから十数年経った今、文字通り価値観は変わった。ダイソーの便箋でも、ルーズリーフでも、ポストイットでも、相手の思いが乗っているものを受け取るのは嬉しい。

ダイソーの便箋で書かれたラブレター、嬉しいか、嬉しくないか。今ははっきりと嬉しいと思える。大人になった。

でもやっぱり、当時に戻ったとしたら、どうせなら文房具屋の380円くらいの便箋の方が嬉しかったかもしれないという思いも若干残っているところに、私の変わらなさを感じる。


そういう絶妙なバランスの中を泳ぎながら稽古してます。1月3日に初日を迎える「これは演劇ではない」ご期待ください。

これは演劇ではないブログ 24《2018.12.23》

文化祭の詳細をなぞっていくことをフェスティバルでも出来るかな

―Aokid

もう幾つ寝ると、これは演劇ではない、のフェスティバルまでもうすぐだ。

僕は6人の主要作家とは別枠で参加する、最初の企画の時点から声がかかってそれでずっといるけど、だんだんこの6人の作家と制作サイドを含めたLINEでのやりとりが具体的になって、色んな情報がシェアされながらまさに準備が進んでいくのを横目で見ている。と同時に、自分の動き方を計り兼ねながら変な距離感でいる、ようやく僕の方からの具体的な関わり方が見つかり今まさに投げているところ、こういうのどうだろう?と。 3つの企画です。アブストラクトなパフォーマンスをぶつけてみる企画と、ダンスのショーケースとトークの企画、それとクロージングイベントでは演劇人による誰でもダンスバトルを企画している。レゴブロックで出来ていく演劇フェスティバルにダイヤブロックも混ぜて作れないか、みたいなアクションなんじゃないかな。

そもそも考えてみると、こんな風にしてフェスティバルに関わるというのは中々特殊なケースとも言えるんじゃないだろうか、だってどうなるかわからないを最初の器作りの段階から設定しているようなものじゃん、と。 きれいなコップじゃなくて、最初から突起物が横に少し出ているような、そんな感じじゃん、と。

その突起物なりの出来ることをやはりがんばってやりたい。期待に応えたい。(そういうとどこかメジャーリーグから来た助っ人選手みたいな)突起物の可能性を見せたい、プレゼンテーションしたいと思っている。 たくさんのフェスティバルが今、世の中に立ち上がってきている。一方で日本はお祭りなんだ、なんて言われながら。

僕にとってお祭りは文化祭の思い出や経験かもしれないな、ウォーターボーイズとかさ、クラスの出し物や有志のダンスや人間ボーリングなど、学校がいつもの機能とは違う運動を建築と人が一緒になって動き遊び始めていく。どこまでも身体中に広がり、めぐりがよくなるようにすみっこまで遊びつくそうと景色を広げていく(広げていくのはそれぞれの小さな言動でやなんかで)、おさえつけられた日常の授業や部活なんかも飛び越えて、違う学校のあり方が働き始める。

そういう学校に通うあの期間は輝いていて、何かありそうで、走り切ってやろうといい景色の中にいようという思いでいっぱいで動いていたり、声をかけたり、パフォーマンスをしていた。 そういうところから出発していくイメージを大人になっても持ちたいと思う。というか最近思い出して、言葉になったんだ。

だからどうぶつえんとか今やっている少しフェスティバルみたいな側面を持った事たち、このフェスティバルでの企画とかもなるべく自分の言葉と身体で動き始めたい。誰と誰がいて、何を動かしたくてやるのか、そういうことの始まりは小さい頃に友達と集まって始めたこととどう違うのだろうか、だんだん誰がいるのかわからなくなっていく社会の中にいるような気がしてきているが、出会う時はそういうんじゃなくて出会うじゃない?そこでだんだん決まっていく、1日中遊んで朝待ち合わせ後すぐは楽しいけど途中3時くらいはつまんない時間が流れる、でも太陽が沈み始めたくらいからそのうちの1人がやり始めたアイディアが面白くなって帰りたくなくなるような長い時間の流れで考えたい。いや、大丈夫だろう、そういう宇宙の中を生きている。


と、横目で見ている視点から出発したものの自分の想いみたいな方に流れ書いてしまったが、少し横でこのフェスティバルを見ているという立場から何が眺められるのかがもう少し重要で、面白いことなはずだからそこでの仕事をどれくらい展開出来るだろうか。

本当はもう少し動けることがあるんだろうな。ところでこないだの12/17の座談会では、同じ日にかぶってSTスポットでアーティストの関川航平くんをゲストに呼んでの企画をした。詩のハードルという、2人とも詩人ではないけども、そういうタイトルを採用し企画が走り始めた。

関川くんの他にもその企画シリーズではよだまりえちゃんというシンガーソングライターやダンス批評家の木村覚さんを呼んだりしてイベントを行っていったシリーズでした。そうやって違うバックグラウンドの人を呼んで集まったりするのも面白くて、劇場の中を違う喋り方が進んでいくような感じがあった。それぞれの喋り方がたくさんの空間の中で、今日も起きて欲しいとも思うんです、そのためにはくり出さないといけないなぁなんてことを年の瀬で思ってiLL。

これは演劇ではないブログ 23《2018.12.18》

語の反響(演劇論)「生けるパン」

―村社祐太朗

 「まるでパンが生きているみたいだ」では、パンは生きていない。それはこうして書かれ、また読まれるという事態に晒されるテキストの顛末だ。このテキストを書いた人か、あるいはこう言った人がテキストと読み手のあいだにどうしても挟まって、真実味があるかどうかを問わず〈経験〉を追体験してしまうからだ。生きているみたいだと思いながらも、死んでいるパンを見つめいている人が想像される。もっとわかりやすく言えば、「毛虫みたいなパン」は生きていない。つまり〈毛虫ではなくてパンである〉という裏返しがこのテキストにすでに張り付いている。では大胆に、「パンが走った」ならどうだろう。こうなると「パン」は、焼くとカリカリになる小麦が主原料のあの食べ物のパンではなくなってしまいそうになる。例えば、パンという名前をつけられた犬や猫が駆けていく姿がぼうっと浮かび上がる。ただもっと前提を手際よく組み立てて、車輪の外径をできる限り小さくした3cm角の平台車の上に台車が隠れるほどには大きいパンを乗せて、さっと机の上を走らせてもいい。それなら確かに「パンが走った」と思う人がいて当然であると思う。ただこうなっては気になるのは、扇動的なやつだな、というわたしの胸に積もる“感じ”のことだ。不自然だ、どうせそのパンは生きてなどいないんだろう、と言いたくなる。

 ここで話しているのは書かれ読まれるテキストのことでもある。ただ一方でそのひとつの経過として、口にされ聴かれる「声」の話をしているという側面もある。これは先に出した「〈経験〉を追体験してしまう」という嫌な話のことだが、テキストが音声化の慣習に脅かされているということが、その理由の一つに挙げられるかもしれない。それはもちろん秘めやかに脳内で起こっている馴致のことも指している。音声化といってもだからそれは「日常」のことだとまでは主張しない。ただ音声化を経由してわたしたちは、声を出した当人と、その内容(テキスト)とを一致させて考えるのにあまりにも慣れている。もちろんわざわざ「テキスト」と示してまで、言ったことの前段階(声になる前はなんだったか)に目を留めることなどまずないのだが、ただそうと言わずに「書かれたことをそのまま読んだだけだよ」といった状況を想像してみても起きていることは同じで、一致がもっと気づきにくいところで起きているだけだ。その書かれたことを〈書いた人〉が、「ふーんあなたらしくないと思った」と答える聞き手と、書かれたことをそのまま読んだ人とのあいだで秘めやかに創造され、それはそのテキストと一致させられる。そうやって「語り手」が否応なく必要とされる。もちろん「〈経験〉を追体験してしまう」を避けるためにテキストを書くこともできるだろう。演劇を実践する身として嫌気が差している「〈経験〉を追体験してしまう」問題というのは、この「語り手」到来問題においても、かなりわたしたちと似た姿をしている「語り手」に限定した話である。

 少し話がずれたので、またパンを生かすためのアイデア出しに戻りたい。それでは「パンがみんな運ばれてきた」ではどうだろうか。「みんな」を「全員」という意味で受け取ろうとすると、そうするとやはり、扇動的なやつだな、という感想がつきまとう。わかりやすく言えばそれは不遜な擬人化が用いられているように聞こえるからだ。パンを生かすためにそんな無理をしなくても、という感じ。ただ「みんな」を「全部(根こそぎ)」という意味だと受け取るとどうだろうか。こうなるとわたしには、パンが生きているように感じられる。どういうことか、このまま結びに移ろう。不遜な擬人法としてではなく、きちんと準備してきた役目を果たすようにして「みんな」が活動しているように感じられる。つまりそれはテキストと同時に想像されてしまう「語り手」の実直さでもある。ここにいとどまる限りは誰もパンを生かそうなどとは考えてはいない。このことが重要だ。ただ一方で、聞こえの中には「パンがみんな(全員)…」が反響する。これは語り手の実直さと別に、「全部(根こそぎ)」という意味を取りそこねた(という実感さえ聞き手にはないわけだが)聞き手の中に、確かにただ一つの聞こえとして反響する〈生けるパン〉の報告である。そしてこの産み落としは、その時には誰も見つけることのできなかった失敗の上に確かに居直っている、また事実ではないだろうか。

これは演劇ではないブログ 22《2018.12.10》

山縣太一

これは演劇ではない。ブログ。今回が最後かな?僕は新作の公演前です。場所はいつも通り横浜のSTスポットです。でも作品はいつも通りではなく僕なりに演劇の可能性を考えて作った作品です。俳優にも作演出することを要求しています。俳優は舞台で渡された台本を言うだけではありません。自分で自分を振り付けて共演者にも要求して台本をジオラマからパノラマにする作業があります。俳優がそういった作業ができれば演出家との上下関係は無くなっていくと信じています。僕自身チェルフィッチュを干された当時は誰もひとりの無名の俳優である僕の言う事に関心を持たなかったけれど作品を発表するようになって僕の発言や発する表現を注目したりしてくれるようになりました。俳優の子達はどんどん作品に関わっていいんだよ。この作品は自分の作品だってお腹すいてても胸張って言っていいんだ。俳優はしんどい。続けていくのはかなり大変。心が壊れそうになるし身体は悲鳴を遠慮して小さめに僕にしか聞こえない声でだす。お金のことや制作サイドとのやり取りや演出家への愛想笑いやつきあいの居酒屋や全部自分でやらないといけない。クリエイティ部に入部したのに実際これなに部?先輩達みんなネガティ部?僕は俳優の権利を死ぬまでに取り戻したい。書いてるからなんだ。演出してるからなんだ。座って偉そうにすんな。俳優が一番偉いんだ。頭使って身体も使ってんだぜ。みたいな。

これは演劇ではないブログ 21《2018.12.01》

最近楽しかったこと

―額田大志

ヌトミックの額田です。

フェスの開幕まであと1ヶ月!
寒くなってきて、もうすぐ「これは演劇ではない」の季節だ、と肌で感じてます。

それと同時に稽古も始まって、稽古はもちろん好きだけど、産みの苦しみももちろんあって、あぁ、なんか楽しいことないかな〜、と思ってしまったので、11月の楽しかったことを挙げてみました。

1:ヌトミック愛知ツアー
11月頭、ヌトミック『ワナビーエンド』で初めてツアーしました。初めてなのもあって、まじかよ、ってくらい、非常に大変なこともあったけど、楽しかった。 そして、呼んで頂いた愛知県芸術劇場は、素晴らしい場所だった。

クリエイションも音響の山口剛さんが加わって、別物じゃん!ってくらいに変わりました。そして、作品が育つ、という感覚がわかりました。確かに0歳だったのが、1歳くらいになった気がする。
機材などの設備も、これでもか!という程に充実していて、仕込みの段階からめちゃくちゃワクワクでした。なんでも出来る。昇降機の使い方がわかった。またここで上演するために頑張ろうと思います。

©タカラマハヤ


2:東京塩麹の名古屋ライブ
同時に劇場で開催した、東京塩麹の名古屋ライブも楽しかった。ライブの日は名古屋の滞在6日目くらいで、そこまで毎日フル稼働していたからか、開演前にアドレナリンの限界が来た気がしたけど、本番が始まったら再び分泌されました。しっかりやりきれた。暖かいお客さんでした。
物販のTシャツが完売しました。劇場スタッフさんがナチュラルに購入してくれたのも嬉しかった。

©コムラマイ


3:名古屋でダーツ
ダーツもちょっと楽しかった。
ライブが盛り上がると、やっぱり嬉しくて、脳から麻薬でも出てるのかな?ってくらい、ハイになる。その結果が、夜の名古屋で初めてのダーツでした。東京から来てくれた友人たちを交えて、打ち上げして、そのまま宿に戻る途中にダーツ屋があって、何となく入って、この感じは大学生に戻った瞬間!って高揚感だったけど、スコアは散々でした。


4:名古屋モーニング
名古屋に来るたびに楽しみにしているのがモーニング。今回もできるだけたくさんのモーニングに行って、モーニングの差を楽しみました。たくさん行ったけど、公演期間中で緊張していて、そこまで味を覚えていないのが残念。ちゃんと写真も撮っておこうと反省しました。


5:京都ライブ
11月4日に、京都でもライブしました。楽しかった。空間現代との2マンでした。
終演後に空間現代と東京塩麹のメンバーが、ライブハウスのテーブルを囲んで、あれやこれや話していたのは、バンドやってて嬉しい瞬間だった。憧れのバンドと、同じ空間で、変に気を使わずにいれる、というのが。 空間現代も、個人的に今まで見た中でベストアクトでした。

そしてライブには、5月のアゴラ演出家コンクールでご一緒した和田ながらさんが見にきてくれたり、東京以外でやると、そんな久々の出会いがあったりして、この日もまぁハイになってしまい、、、。

©コムラマイ


6:京都の打ち上げ
宿に戻ってから、今度はバンドメンバー数名で打ち上げ。深夜まで空いているイタリアンがあって、そこが美味しくて、バンドは結構長くやってるとはいえ、メンバーも多いし、ゆっくり話すことも中々ないので、楽しかった。
美味しいと楽しいは密接に繋がる!と思った。


7:伝説の銭湯
そのまま京都の銭湯へ。行けてよかった。僕はサウナが大好きで、日頃からよく銭湯に行くのですが、「サウナの梅湯」は、これまでにもWebメディアとかで度々見ていて、偶然、宿から一番近い銭湯で、運命じゃん!って感じで、行きました。

全国的に、若い人が銭湯をリニューアル(建物を新しくするのではなく、サービスを見直したり、独自のシステムを組み込む)流れがあると思うのですが「サウナの梅湯」は、その先駆者的な銭湯で、なんだろう、ずっとプレイしたかったゲームが手に入った、みたいな感覚でしょうか、そんな興奮もありました。


8:超常現象館が届く
11月5日、久々に自宅に戻ると「超常現象館」の本が届いていた。
すみません、まだちゃんと読めてないのだけど、読むのを楽しみにしている、という意味で、楽しいことリストに入れました。


9:F/Tトーク
11月8日、フェスティバル・トーキョーの企画に呼んで頂き「ディレターズ・トーク」に出演しました。
長島さんと河合さんが、とても話しやすい空気を作ってくれて、まだまだ全然話すことあるのに!ってくらいに、90分があっという間でした。
フェスティバル期間中で、お二人とも、とてもお忙しいと思うのだけれど、終わってから近くの中華料理屋に行ったのも、良い思い出です。あとなぜか舞台の小さめの打ち上げって、中華料理屋が多いですよね。音楽だとそんなことも無いのだけれど。何でだろう。。。


10:底なしのバケツのようにざらざら、リリースパーティー
呼んでもらいました!演奏しました。11月10日。
アルバムのリリースパーティーは、自分も音楽をやっているから思うけど、とても大切なライブと言えると思います。演劇だと数年に1度の本公演のような、尋常じゃない熱量で作るイベントのような。で、それに声を掛けてくれたので、それはもう嬉しくて、二つ返事で出演を決めました。

そもそも今年のフジロックで、東京塩麹が「底なしのバケツのようにざらざら」(バンド名です)と、偶然同じステージに出演して、お互いが偶然演奏を見ていて、さらに偶然というか、音楽的にわかり合う部分があって、変拍子良いね、とか、そのキメが熱いね、とか。まぁ正直フジロックでは一言も喋らなかったけど、えっ、かっこいいじゃん!って、心の中でお互いが思っていた状態で、東京に戻って、それが、繋がった瞬間が、彼らのリリースパーティーでした。バケツの演奏も本当によかったし、そんなエモーショナルな背景があって、そういうのはお客さん的には、あまりどうでもよいことかもしれないけど、僕らとしては、そんなイベントに出れてハッピーでした。リリースおめでとうございます!


11:秋葉原でお茶
で、ライブの前は、リハーサルが終わって暇になったバンドメンバーと、川が見えるカフェでお茶してました。結構、それぞれの将来のこととか、今まで話したことが無いことを話したりして、別に悲しいこととか、エモーショナルなことを言ってるわけでもないのに、なんだかその状況に泣きそうになる、そんな時間。夜の高速道路を走っていると、なぜか泣いてしまうことがあるけど、それに近い感覚でした。僕だけだったらすみません。


12:それからの街を見る
和光大学の演劇団体「あんにゅあーじゅ」が、自作を演出してくれました。いや、もうこの段階で、嬉しいことこの上なし、なわけですが、作品も面白かった。もちろん、バイアスが掛かっているとは思うけれども、それを差し引いても、自分の作品の新しい一面が見れて、素敵な時間でした。

原作者の性分として、そこは違くない!?、と思う演出もあったりするんですが、それも含めて、同じ戯曲で出来ることの広さを知って、これは、昨年に鳴海康平さんが同作を演出して頂いたときにも感じたことだけど、演劇って懐が深いと思えた。
写真は和光大学の校庭。


13:ビルを囲んでダンス練習
11月17日には、今度は自分たちの、東京塩麹のリリースパーティーがあって、ダンスのゲストでAokidさんと坂藤加菜さんが出演してくれました。
で、その数日前、急遽、1回ダンスだけで稽古したい、となり、リハーサル開催。場所は、急だったのでいつもの稽古場が使えず、ストリートダンスの練習場所として知られる、安田ビルに!
なんか部活っぽくて、すごく楽しかった。ダンサーが何十人とビルを囲んで踊っていて、その世界のルールみたいのを全く知らない自分がその場所にいるのは不思議で。Aokidさんも、坂藤さんも、出自は(と呼んでいいかはわからないが)ストリートダンスをしっかりやっていて、2人の独自のダンスが、多くのストリートダンスの中に溶け込んでいるのも、新鮮だった。そして、このときに見せてもらった通しがとてもよくて、リリースパーティーが上手く行く気持ちが高まった。


14:東京塩麹 リリースパーティー
ついにきた!といわんばかりの、リリースパーティー。
結果的に最高に楽しいライブになりました。

アルバムを出すときは、まずライブの日程を組んで、そこからリリース日を逆算することがあります。
今回もそうで、とりあえず1年前に会場だけ押さえて、そこからリリース日が決まりました。なので、1年間、常に頭の中にはこの日のことがあった。

あまり書くとあれですが、個人的に、しっかり集中もできつつ、テクニカル面も上手くいき、人生史上ベストアクトだったと思います。
なにより、会場のスタッフさんが笑顔だったのが、めっちゃくちゃ嬉しかった!その笑顔をみたときに思ったけど、こうやって、不特定多数の誰かに届けたくて、このために音楽をやっていた、と言っても過言ではない、とキーボードを弾きながら思った。自分のためであり、誰からのために音楽をやっている。

ゲストのASA-CHANG&巡礼、Aokid、坂藤加菜、ermhoi、Queも驚くほどに、このライブのために準備を掛けて頂き、そういうのって、お客さんにも伝わるから、幸せな時間が生まれたのだと思う。

あと、もしかしたら、普段あまりライブなどに行かない人は、とりあえず、ちょっと興味があるアーティストのリリースパーティーに行くと良いかと思いました。ライブはどうしても演劇と比べると回数が多いので、どれを観に行くべきか?と迷うこともあると思いますが、リリパは、アーティストがそのときのベストを尽くすし、ほぼ間違いなく良い演奏になるし、お客さんの熱量も高いので、オススメです。


15:曽根企画打ち合わせ
本日情報公開されました!曽根企画に参加します。ジャン・コクトーの小説『恐るべき子供たち』を舞台作品にします。アンファンテリブル!

この作品、動員400人目指します!と宣言しているのが、僕はとても良いと思っています。基本的に、動員、売上、再生数、、、など、数字で物事を判断することに強い抵抗があるのですが、一方で、動員がある程度まで行かないとプロになれないよな、という気持ちも強くあります。ある程度、の大小は様々ですが、まずは400人、というのは、東京だったらすごく手の届きそうな数字だし、挑戦しつつも無理のない数字で、漠然とプロになろう、と思っていても、なれないし、とはいえ、いきなり数千人とか言われても、困ります、という場合において、共感できる数字でした。初の劇場公演で目指せ400人!

ということで、いきなりの宣伝ですみませんが、ご来場お待ちしています。僕は音楽作ります。作品の創作過程、つまり制作面が既にかなりしっかりしているので、内容はわかりませんが、クオリティは間違いなく高くなると思います。
(その公演の打ち合わせが楽しかった、という話でした)


16:即興的最前線
11月24日。朝、Googleマップで調べたら遠い、、、となったけど、行けて良かった。会場がギャラリー?で、自由に見れると思いつつも、実際は演奏を目の前でしているから、観客はそこまで自由に動いたりはできない(が、動く人もいる)、という、このジレンマが会場全体の集中力を生み出していました。
知り合いが出演している、というのもあったけど、フライヤーが良くて、それが行く決め手になった。フライヤー大事。


17:ディズニーシー
翌日はディズニーシーに行きました。演出家は、小馬鹿にすることなく、ディズニーランド、ディズニーシーは絶対行った方が良いと思う立場です。無条件でアガってしまう、あのショーの数々といったら。。。

別段ストーリーがなくても、人間の根源的な欲求に訴えることで、一気に数万人の人を感動させる演出。あとテクニカルも常に更新され続けているので、最先端のオペレーションが見れたりします。2年前に見た、ディズニーランドのシンデレラ城のプロジェクションマッピングは、今まで見たプロジェクションマッピングの中でもベスト級でした。

あとディズニーランドは、上向きの空気がすごくて、ある意味では夢の国に最も近いのでは?と思います(先日、長時間労働問題が浮き彫りになったこともあり、全てが賞賛できるわけではないですが)

ディズ二ーには、お客さんも楽しもう!と思ってきているし、スタッフさんも楽しもうとしている人がいるから、楽しく働こう!という気持ち。これってかなり、良いライブの雰囲気に近いな、と毎回思います。相乗効果。帰りの電車内ですら、何だか特別な時間に感じられるのが面白いです。

余談ですが、1日の平均来場者数が10万人くらいらしく、その数字の大きさに、引きました。「センターオブジアース」に並んでいる途中に、カフカの「流刑地にて」を読みました。


18:東京塩麹 MV公開
これがとてもすごいのです!ぜひ観て欲しい。夏頃からじわじわ作っていました。撮影も楽しかった。
https://youtu.be/ShHAzAHXjjs


19:MUSIC SHARE
11月27日、Web音楽番組に2度目の出演。
同じ番組に再び声をかけてもらうのは、やっぱり嬉しいです。Aokidさんとermhoiもゲストで参加。ダンスが映像でどうやって見えるのか気になっていたけど、いざやってみると、なんというか、カットによっては映らなかったりするのが新鮮だった。ライブだとどうしても、Aokidさんばかり見ちゃうから。ダンスもメンバーの1人、構成要素の1つ、って感じで、好き嫌いはあると思うけど、これはこれで良さがあると思いました。

終わってから、ermhoiとスタッフ鈴木の誕生日をサプライズで祝う。コージーコーナーのケーキで良いのか、最後まで迷った。


20:範宙遊泳
新作『#禁じられたた遊び』がとても面白かった。始終、次に出てくる台詞が気になって、前のめりで観れた。
戯曲も演出も、俳優もテクニカルも制作も、恐らく全てが上手く行って、すごく充実したクリエイションだったのではないか、というのが、上演からビシビシ伝わってきた。出演者全員が作品を信じている気がした。そんな力強さも良かったです。


21:焼肉
11月29日、大きめの仕事の納品が終わったので、いわゆるご褒美的に焼肉を食べに言った。
肉寿司?みたいのを、たぶん人生で初めて食べたけど、美味しかった。


22:さんま
11月30日。最近は魚介類をグリルで焼くのにハマっています。基本、塩を振って焼くだけだから楽、っていうのが大きいのですが。。。
自炊は、自分が食べたいぶんだけ作って、もっと食べたくなったら追加で作っちゃえば良い、その自由なところが、楽しくて好きです。


、、、、、、、、、、、と、挙げていったら切りがないと思い、このくらいで止めておきます。
なんだか11月は楽しい月だった気がしてきました。

これは演劇ではないブログ 20《2018.11.27》

かんきゃくろん

―綾門優季

こころのなかにいちばんめのかんきゃくがいてそのかんきゃくにといかけます。これはなんですか。いちばんめのかんきゃくはちゃんとかんがえてくれるかんきゃくなのでちゃんとこたえてくれることのほうがおおくてこたえがちゃんとしていたらあんしんができるのでねむります。ところがいちばんめのかんきゃくがちゃんとこたえてくれなくていちおうまってみるんですけどいつまでたってもこたえてくれないとしびれをきらしてくちにだします。これはなんですか。そこにはにばんめのかんきゃくのへやのかべがあるのでへやのかべにはんきょうしたぼくのこえがかえってきてだいさんのかんきゃくのぼくにかえってきてだいさんのかんきゃくのぼくがかんがえるばんなんですけどよくわからないのでなんどもこえにだしてしまうのはせかいのるーるということになっています。これはなんですか。これはなんですか。これはなんですか。これはなんですか。これはなんですか。ぼくのこえがくらやみにとけこむだけになってしまってわんわんとなりひびいてどれだけのときがながれたかもよくわからなくなってしまったみみがひめいをあげてしまったらかみにかいてみます。だいよんのかんきゃくのかみです。かみはむくちですがかみをながめているといちばんめかにばんめかさんばんめのかんきゃくがふとへんじをおもいついてこたえてくれることがあるのです。でもきょうはかみにむだにかいてしまったようです。なぜならとてもしずかだからです。こたえてくれないんだなあとおもってじんせいのぜんはんではそのままねむっていましたがじんせいのこうはんではそれをひとにみせるというせんたくしがあるということをしったのです。かくめいというやつです。これはすごいです。ここでだいごのかんきゃくのえんしゅつかさんがとうじょうします。あれこれいってくれます。とてもよくかんがえてくれます。わーいっておもったりむむむっておもったりしてだいろくのかんきゃくのはいゆうさんがくちにだしてだいななのかんきゃくのけいこばのかべにはんきょうしたけっきょくはぼくのこえがかえってきてだいさんのかんきゃくのぼくにかえってきてだいさんのかんきゃくのぼくがまたかんがえるばんでだいはちのかんきゃくのおんきょうさんとだいきゅうのかんきゃくのしょうめいさんがあれこれいってくれるのでじゅうばんめのかんきゃくのとかげくんにあらためてといかけるのです。とかげくんにはいざというときにしかはなしかけません。したがってしまうからです。うんうんうんといってげきじょうにむかいます。じゅういちばんめのかんきゃくのせいさくさんがまっています。ところでここまでのじゅんばんはじゅんふどうです。

あれあれ。きおくがとぎれてしまいました。とおくからはくしゅがきこえます。ひゃくろくじゅうにばんめ? あのときからかぞえるとごせんきゅうひゃくにじゅうななばんめ? おもいだせるかぎりまえのところからだとにまんにせんはちじゅうよんばんめ? のかんきゃく? がろびーでぼくにはなしかけてきてぼくはこたえをはじめてしってこれまでのながいたびのことにおもいをはせるのです。せかいはひろいです。せかいはひろくてすごいなあとにまにましながらいえにかえってとかげくんをだいてねむりますがとかげくんにはふだんははなしかけません。これはなにかわからなくてもだいじょうぶなこともあるからです。

これは演劇ではないブログ 19《2018.11.19》

カゲヤマ気象台

まだ稽古は始まっていない。戯曲を書いている。

演出もやりつつ戯曲を書いているとよくされる質問に「頭の中で具体的にシーンを想像しながら書いているんですか?」というのがあるのだけど、今までは「考えてないです」と答えていた。これは半分本当だが、実は半分嘘だ。

というのも、具体的に考えることもあったけど、うまくいかないことの方が多い。うまくいかないというのは、「面白くない」「想像と違う」みたいなこととは少し違って、「結果的によくない」「不健全だ」「風通しが悪い」みたいなことだ。なんというか、完璧に予定を組み立てたはずの休日があまりよいものじゃなかった、というような。だからいつも、なるべく「こうだ」と決めたくない、ただひたすら言葉だけのことを考えたい、と思いながら書いている。

ところが、それが具体的なアクションでなくても、何らか動的なテキストでないと、やはり劇にはならない。動的な何かがないと稽古をするとっかかりにはならない。「どんなテキストでも上演できるか」という問いに関しては、私ははっきり「できない」と答える。文章として完成されているものを上演するのは難しい。不完全なところには何かしら動的なものが入り込む余地がある。余分よりは足りないほうがいい。前へ前へと、時間が流れているほうがいい。

そうして動け動けと思いながら戯曲を書いているのだが、なんだか今回は、その動的なありようがもうひとつ展開してしまったような感覚がある。動的なさまがそのまま、頭の中で具体的なイメージとして結実してしまって、それは具体的な舞台美術となり、照明となり、俳優の動きとなってしまうような、そんな感じがする。本来であればこれはよくない傾向のはずだけど、今回は順序が違う。言葉が先で生まれたイメージ、夢のような、カフカの小説のような、そんなイメージで、簡単に形を変え、あるいは消えてしまう。だからこういうイメージに従うというのであれば、もしかしたらいけるんじゃないか? という気もしている。なぜならそれは本来的に言葉そのものとあまり違わないから。現実に根拠をもたない、いわば自由なイメージだ。これを叶えようとするのではなく、並走するような形で稽古ができたら、もしかしたら具体的なイメージと共にありながら、自由に創作ができるのではないか、という風に考えている。

今回上演する新作『幸福な島の誕生』は、ある大きな出来事が起きた状況下の東京と、もうひとつ私の行ったことのある別の地域についての演劇になる予定だ。しかし私は基本的には、ある客観的なリアリズムを描くのは演劇の役割ではない、というスタンスをとっている。『シン・ゴジラ』みたいなことは演劇はやらなくてよいと思う。重要なのは出来事としてのリアリズムではなくて、ひとつの主体がもつイメージであって、それがいかに切実さを持てるかというようなことだ。だからあくまで、この作品にとりかかる私が考えるのはある状況下の詳細ではなく、もっと夢のようなもの。夢のような都市。夢だからこそよりリアルな存在。そういったものを走らせながら、みんなで創作に向かえたらよいと思っている。

今日はすごく寝てしまった。頭をはっきりさせるために街をうろつこうと思う。

これは演劇ではないブログ 18《2018.11.13》

山縣太一

山縣太一です。ただ今新作の稽古中です。能をすてよ体で生きるというタイトルです。タイトルが何かに似てるんですけど内容は全然違います。舞台に立つには脳を身体に移す方が作品には関われるよっていう意味です。頭はまだイカれてません。タコれてますが。僕は稽古をたくさんやりたい派です。できれば本番が終わっても稽古をしたい派です。終わってすぐ次ってなるのは作品も俳優もかわいそうな気がします。これは演劇ではないの稽古もお話しをいただいてから今までずっと稽古しています。早朝に公園か海岸で身体を起こしながら稽古。時間があれば夕方も稽古をします。一人で稽古をするのでいいか悪いかの判断はしません。この台詞の時に身体のどこが動いていたか?動きのはじまりはどこか?を徹底的に見ます。頭はまだイカれてません。タコってますが。僕は稽古がしたい派ですが長時間やりたい派ではないです。俳優の集中力は最大で5時間が限度だと思います。僕は2時間か3時間くらいがちょうどいいと経験上感じます。僕はまだ二十代のころ長時間の稽古で腰骨が折れてしまった事があります。それから今日まで体に痛みが無い日はありません。痛み止めが欠かせないし今は気づいたらAmazonで杖を無意識に購入しようとしています。
だから結論としては稽古はいっぱいやった方がいい。もちろん俳優の日常生活を脅かさない程度で。長時間の稽古は危険。なので作演出の方は稽古初日までには台本を書き上げる。俳優がそれを覚える時間が潤沢にある。昨日渡して今日発話とかはできるだけやらない。みたいな感じかなぁ。みんなは何派かなぁ?
これは演劇ではないブログ 17《2018.11.13》

山縣太一

これは演劇ではないブログ。僕は演劇ではないから俳優が舞台の上でどんな作業をしてるかがすごく気になる。台詞を言う。段取りをこなす。台詞を間違えない。段取りをきちんと遂行する。演出家のイメージを具体化具現化する。みたいな作業ですかね?そういう作業をしてる俳優を観るとすごく疲れちゃったり悲しい気持ちになったり、時には二度と演劇なんて観ないと腹を立てたり肩を震わせたり喉を鳴らしたりします。まあでもそういう俳優ばっかりだけど。台本とは別のストーリーや台詞の矢印とは違う矢印を持つことができる俳優。演出家のイメージの奥行きをだし幅を広げること。そして自身の身体を自分で振り付けられること。もちろん作品に無関係な振り付けではない。そんな俳優は日本にはいないから僕は身体が動くかぎりそういう俳優を育てたい。もっと言えば世間一般のいい俳優の定義を変えたいです。
これは演劇ではないブログ 16《2018.11.3》

「恐怖」について。

―松村翔子

ここ最近、ずっと寝込んでいました。
怖い夢を見た日の日記です。

***

昼間。
天気が良い。洗濯したいがベッドから出られない。近頃ほとんど布団の中で一日を過ごしている。五、六日間は外出していない。吐き気と腹痛にやられているせいだ。

苦しみを紛らわすためになぜかアマゾンプライムで『セックス・アンド・ザ・シティ』を見る。やるべきことはたくさんあるがこの身体的苦痛から逃れるため、切羽詰まっている私は『セックス・アンド・ザ・シティ』を無我夢中で見る。主人公たちと同年代だが彼女らに全く共感できないところがいい。スポ根めいたセックスへの打ち込み具合は尊敬に値する。その体力が今すぐ欲しいと切実に思う。生命力があるというのは突き抜けて馬鹿になることなのかもしれない。

夕方。
気付いたら寝ていた。iPhone画面ではサマンサがセックスをしている。サマンサはフェラチオをし過ぎる。喉の奥がヒリヒリする。風邪を引いたのかもしれない。水を飲む。マスクをして再びベッドに横になる。近所から赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。その声と腫れ上がる喉の鋭い痛みが一体となって右のこめかみをぶん殴ってくる。

夜中。
鼻をかむ。鼻詰まりがひどい。苦し紛れにメンソレータムを鼻の下に塗りたくる。鼻の下がピリピリしてすぐに後悔する。なんか不穏な夜だなと思う。電気を付けたまま眠りにつく。

夢。
夜中の高速道路。
車の運転席にいる。
背もたれを倒して横になっている。
どこかのサービスエリアの駐車場。
座席は狭くて寝苦しい。
車窓から夜空を見上げる。
等間隔に整列したオレンジ色の街灯が不気味に首をもたげているのが見える。
助手席側の窓に目をやると隣に駐車しているトラックの運転手が缶コーヒーを飲んでいる。
鼠色の薄汚いダウンジャケットを着た中年の男。
男がドリンクホルダーに缶を置く。
煙草に火を点ける。
無精髭に包まれた頰の皮がたるんでおり、ブルドッグのような輪郭をしているのが分かる。
暗くてよく見えないが、白目部分は黄色く濁っている気がする。
狭い座席で体勢を整えようと脚を組み替えると、爪先が車のキーにぶつかりカチャリと音を立てた。
犬顔の男が振り向く。
「これはまずい」と直感的に思う。
こういうネガティブな予感というのは大体当たる。
当たる、というより、ネガティブな予感が生まれた時にはすでにその状況に呑まれていて、取り返しがつかなくなっている。
犬男と目が合う。私はすぐに逸らす。
トラックの扉が開き、男がこちらにやってくるのが分かる。
身構えることしかできない。
助手席の窓が15センチほど開いていることに気付くが、それとほとんど同時に犬男はその隙間から素早く片腕を差し込んで私の左手首を掴む。
私は手首に触れられるのが嫌いだ。
嫌いというより生理的に受け付けない。
幼いときに骨折を経験してるからか手首を握られると胃の周辺がざわざわして何とも言えない不快感に襲われる。
犬男は私の左手首をぐいぐい引っ張る。
恐怖のあまり声が出ない。
振り絞って出た声は「あうあうあー」みたいな呻き声だった。

朝。
左手首の不快感に悶えながら、「あうあうあー」を発しているところで目が覚める。私は実際に結構な音量で「あうあうあー」と呻いており、右頬が大きく痙攣していた。

怖い夢から目覚めて現実を振り返ると、何かしら大きなストレスや精神的なプレッシャーを抱えていることに気づく。身体的に衰弱すると妙に気が小さくなり思考が生真面目に傾いて良くない。

先日観た映画『ノクターナル・アニマルズ』のことを思い出す。夜はああいう凶暴で残酷な想像が豊かになる。なんとなく、不気味な小説を書いた男の精神状態が理解できる気がした。自ら恐怖に直面しようとする心理(対抗恐怖と呼ぶらしい)は、生き延びようとする生存本能の裏返しだと思う。そういうことにしておくと、悪夢を見た朝も多少は清々しく迎えることができる。

***

犬男の恐怖から逃れた後、約一週間ぶりに家を出て、スーパーで買い物をしました。今はもうだいぶ元気です。

これは演劇ではないブログ 15《2018.10.24》

山縣太一

これは演劇ではないブログ。僕は演劇ではないんだけど俳優を意外と長いことやってまして演技についてあれこれバカなおつむで考えたり踊ったりしてるんでごわす。まず僕が完全に全否定なのは俳優の役作り。これは必要ないでしょう。この人はどんな人で、、とか考えるだけ時間の無駄無駄無駄。オラオラオラが提案する太一メソッドは役との距離を計り測り図り続けるという作業です。前に神村恵さんの配置と森っていう作品に出演した時に自分と物との距離を測る。舞台上に自分の身体を配置する。という事をやってすごく勉強になった。そこから発展して俳優が今から舞台上で演じる役との距離を舞台上で測り続けるという太一メソッドの背骨にあたる部分ができました。神村さん感謝(驚き)俳優が自分の身体を常に日常からよく見て診る事と舞台上でお客さんの前で自分の身体に起こる日常の自分の身体とは違う症状を常に見続ける。それも日常の自分の身体と舞台上での自分の身体との距離を測り続ける作業になります。みなさんぜひパクってやってみてください。現代人に特におすすめします。

これは演劇ではないブログ 14《2018.10.13》

ベースボールソングは劇場から出た街で聴かれることと練習する時

―Aokid

僕はベーブルースではない。

「これは演劇ではない。あれは演劇ではない。じゃあ何が演劇なの、かげやま〜くん?」と先日歌ったのが僕Aokidだ。

僕はこの名前を高校3年生の時につけた。それまではブレイクダンスのコミュニティーではいつもいつも〜と実は呼ばれていた。この名前はその日先輩クルーの練習先に出向いた際に来ていたサッカーのゲームシャツを誤読されてフェラーリと読まれてそこからいわゆる感じで面白がられてそう皆が呼んでいた。配慮のある人はフェラーリってちゃんと(なのか?)呼んでくれていた。

岡村隆がブレイクダンスをやる時のニックネームがKidで、ブルーハーツとか青春とかいいよなぁとか思って、子供以上、成熟未満みたいな感じの合体的意味もありAokidとした。

中高生の時にWATER BOYSに魅せられて(映画も見たし、お台場にも観に行ったし、実際に高校の文化祭で行った。)、大学では映画を勉強しようと入って最初にそこで出来た友達たちと観に行ったのはNYの80年代を舞台としたミュージカルRENTだった。

RENTを作ったジョナサンラーソンは30歳でRENTがプレミアで発表される直前にエイズで死んでしまった。それだけじゃないけどとにかくNEW YORKに大学1年生の時に訪れそこでブロードウェイでのRENTを見た。段々コンテンポラリーダンスを知るようになった際にKENTARO!!さんに出会ってそこで舞台を勉強するのはとにかく数を見ろ、とKENTARO!!さんは当時年間100本は見ていたそうだ。演劇も見た方がいいと言われて、見るようになった。大学の映画専攻の同級生にたかくらかずきくんがいて彼が劇団と仕事をしているということで範宙遊泳を観に行くようになった。大学の授業でもチェルフィッチュの映像を見たりした。確かにダンスと重なるところがあると段々思い始めたし、日本でなら日本の映画より自分が見たいと思うものが演劇での方が見えるようにも思った。 友人からはブルーマンがあることやNYでの面白いパフォーマンスを教わったり、そして大学2年生の時に行ったベルリンでは川口ゆいさんが参加する作品はなんというかパーティーという形態であった、ただ見るということが難しく一緒に参加しながら色々経験していくような作品体験だった。

段々、KENTARO!!さんの手伝いやダンサーとして参加していくうちに演劇をやる友人も増えていった。でも経由はそこだけじゃなく、いろんなところにあった、橋本匠くんを通して岸井大輔さんに会ったり岸井さんからカゲヤマくんに会ったり、BONUSを通して村社くんにあったり、BUoYをそして杉浦くんを通して額田くんに出会ったり、、あるいは新作の出演者を探していた篠田千明さんは白神さんや岸井さんなどのオススメを通して連絡をくれたり、多田淳之介さんはダンコレの審査を通してだったり、そんな風にしていつの間にか演劇の人と協働することが多くなった。これは彼らの好奇心によるところも大きいのだと思う。ダンスだと1人でも作品を作り得てしまうからその可能性は減ってしまう傾向にあるのだ ろうか。でもそれだけじゃなく、作品という部分以外でも誰か他の人と話したいという気持ちだったり、何か前への興味だけでなく横がどうなっていくかへの興味も働いていたんじゃないか、そんなことを思ってみたりする。その時の彼らの顔とともに。

そう話しは少し戻るけど、自分はこれからも色んなものに興味を持って見に行きたいと思うし、何か疑って見ていくような視点の1つとして、これはいったいダンスなのか演劇なのか、あるいは音楽なのか、とかそういったことが見ていると起きてくるところがあってすごく意識的にそれだけを探してしまうとがんじがらめになってしまいそうだからいい塩梅でそんなことも考えながら色々見て、やっていきたいと思う。 こないだ発表したTalkingKidsでは額田くんはじめメンバーの力を借りていくつかの楽曲を作ることが出来た。制作現場では、なんだかほんとにミュージカルを作っているような錯覚が一瞬起きたりした。雨に唄えば、とかTakingHeadsのStopMakingsSenseとかのライブ映像もいいよね、あと脳内ニューヨークって映画もいい、劇作家が主人公で街の中にもう1つの街の巨大舞台セットを作ってしまう話。あとはニューシネマパラダイスで、村にある建物の側面に映写機をあててみんなで見るという景色だったり、ソウルキッチンでは倉庫を改装してレストランにしてご飯食べて音楽をやるパーティーのシーンがあってあぁいうのも最高だなぁと思って。世界の中心で愛を叫ぶ、の主人公が助けてください!って叫ぶシーンも絵 の中で体が真ん中にあってそこから叫ばれるのは絵であり、絵を少し飛び出るような飛び道具的なアクションの迫力、原体験が詰まっているようで、ダンスとしてもインスピレーションをもらった。それがこの20歳の時に行った初めてのパフォーマンス。

https://www.youtube.com/watch?v=Yni0TU-1XuA&t=4s

確かに今の日本のプロ野球とか甲子園の感じとかはそんなに好きじゃないけど、野球も、球場もいいなぁと思っていて、球場に外から入ってナイターを観に行った際に会場のライティングが緑のグラウンドと広がる客席を照らしどこまでも夜空が広がっているそういう状況がこの建築にはあって、そういところも面白い。最初はもっと小さなコートとルールから始まったのかもしれないけど。 スポーツとか舞台とか、小さく起こっていくダンスとか、そういったものがばらばらに集まっている街があって時間が経過していく、経過していく時間の中でそれぞれが運動を持った人、が集まったりする瞬間が”これは演劇ではないフェス”の時間だったりして、それが他の経過していく時間たちの中でまた他のことと関係していくこれからも。そういうことを大歓迎していくために、僕の方も準備を手をつけはじめなければ。この場以外で起きていることのためにも、この場がばっちりしていくような、取り組みを少しづつ進めていかねば。


11月か12月くらいにはあるアイディアを提案したいと思っています、なにか得体の知れないバンバンバンとしたようなものを、、!

僕はこのフェスにおいてちょっと変化球的な、いやなんだろう代打みたいな、いや始球式ピッチャーのような、いや7回の表が始まる前のチアダンサーのような役割を担うかと思う、いやそれさえもこれから作っていくことだろう。そこでの取り組みは果たしてどんな感じになるのか、、、お楽しみにどうぞ!

これは演劇ではないブログ 13《2018.10.6》

語の反響(演劇論)「がらのわるいのりもの」

―村社祐太朗

 「乗り物」という語のことをちょっとだけ長く考えてみよう。ただし語のことを考えるのに、その語ひとつを頑と見つめていても進みが悪い。語のことをよく知るには、語を組み合わせやセンテンスの中に放り込んでやると話がはやい。

 例えば「乗り物一覧」という組み合わせにいたったとき、乗り物という語はどんな意味をもつだろうか。「乗り物」それひとつだったときと比べてみると、明らかに語にはっきりとした色味がついていると感じられないだろうか。「乗り物一覧」のとき、乗り物はたとえば、幼児向けのことばとして機能し始める。よもや「乗り物、はそういえば最近あまり使わなかった」といった感想さえ滲んではこないだろうか。ブルドーザーとかクレーン車とかいまとなっては特殊車両という語で説明され、昔のような感興は微塵も催さないいわゆる「はたらくくるま」のことを「乗り物」という言葉で示すこの語と語の距離に、ある種のノスタルジーこそ湧いてくる。

 ただここで、語の後景に「車両一覧」という言葉を並べてみることもできる。そしてそれはもちろん、幼児向けという機能とはなんら関係がない。恐らく「車両一覧」は教習所で手渡されるテキストに紛れている語である。ただもしかすると、「乗り物一覧」と「車両一覧」はわたしたちの現実において、(その版のサイズや雰囲気は違えど)ほとんど同じイメージを指しているかもしれない。「乗り物一覧」ということばの下には色とりどりのはたらくくるまや普通車両、市場を走り回るプロトタイプのセグウェイのようなあれ、そしてセグウェイ等がランダムに配されたイラストで紹介されているだろう。そして一方で「車両一覧」の下には、車高や車幅がmmで記載されるはたらくくるまや普通車両のイラストが、きちんと横一列になってモノクロでプリントされている。ただそこにはそれぞれ法的に必要な免許の種類が併記されていて、またセグウェイの類もない。このように指し示す現実はある点では一致していて、ただ別の点では異なっている。重要なのは、車両と乗り物という類語を語の組み合わせにおいて比較するだけで、ディテールに目をやってやっと峻別できるほど似た現実が二つ見えてくるということだ。そしてそれは言い換えれば、こんな些末な語に到来する現実の量、あるいは湧出のたくましさには驚いた、ということになるかもしれない。

 では、「公共の乗り物」はどうか。こうなると何故か乗り物にはもう幼児向けの機能はほとんど残っていないように感じられる。この組み合わせであれば今もわたしたちはよく使っているし、「乗り物一覧」のときにあった小さな違和感のようなものがない。そして前項に翻ってみれば、「車両」に代えたから「〜一覧」は幼児向けでなくなった、ということではないのかもしれないという可能性もたち現れる。わたしたちはどういった道筋で、幼児向けという機能を「乗り物」から受け取っているのか、そんな疑問も残る。

 最後に「がらの悪い乗り物」ということばを紹介したい。これはいったいどういったことばか。どういった、というのは、これがどんな意味を持つ語か、ということである。言い換えれば、どんな現実を指し示す(引き受ける)語か、ということである。

 もしハーレーダビットソンや、シャコタンがされた古いGT-Rのことを言いたいなら、「がらの悪いバイク」や「がらの悪い車」で事が足りるように思う。ここでわざわざ「乗り物」と言うからには、複数の「がらの悪い」某かをまとめて指し示したい思いがあるというわけだ。種明かしをすると、わたしは「がらの悪い乗り物」を、まとめサイトという環境において想像した。NAVERまとめのページタイトルとしての「がらの悪い乗り物」。本当にそんなページがあるのかどうかは知らないが、現実にこのような場を据えると、「がらの悪い乗り物」にあって「乗り物」が担っていた根無し草の機能〈がらの悪い某かを複数束ねて言い表す〉に、根が生えたように思う。

 しかし「がらの悪い乗り物」という語がもつ意味は本当にそれだけだろうか、と疑問は残る。わたしは一辺倒に考えてみることでしか深く潜れなかった。別の溝に潜水して、この語の別の輝きを見つけた方にはぜひその実地をご報告いただきたい。例えば「乗り物」がここでも幼児向けの機能を担うと想像してみることは容易にできよう。ただそうすると、『カーズ』に出てくる悪役(そんなキャラクターがいるかどうかは知らないが)を指して、映画に熱中していない大人がへらへら冗談を言う様が浮かぶ。「がらのわるいのりもの」と。

これは演劇ではないブログ 12《2018.9.30》

山縣太一

これは演劇ではないブログ。演劇って僕あんまり慣れてないんだけどなんかわかんないけど時間かかるよね。しこみとかバラしとかあるし。スタッフさんの機材とかあるし。僕基本的にそういうの嫌い。細かく言うとそういう事で俳優を疲れさせるのが嫌い。だから俳優の入り時間とかも朝10時とかに絶対したくない。バラしとかも極力本番終わりの俳優に無理させたくない。疲れてると怪我しやすいし。お手伝い程度でいいと思う。釘拾うとか。僕昔トラムかな?どこかの現場でしこみに短パンで行ってむちゃくちゃ怒られた事ある。バラしもめげずに短パンで臨んだけどね。怒られて壁際にずっと立ってた。用事があると呼ばれるんだけどやる事ない時は壁際に立てと指示されていたのら。バカらしくなってタバコ吸いに行っちゃった。スタッフさんて怖い人は超怖いからね。みんな気をつけようね。あと演劇って千秋楽に打ち上げやるでしょ?これも嫌い。千秋楽で疲れてるのにバラしもやって打ち上がります?別日にしましょうよ。疲れてお酒を飲むのが一番危険だよ。演劇の打ち上げ嫌いだな。大勢で飲むのが嫌いなんだよね。これは演劇ではないの打ち上げは千秋楽にはやらずに別日に音響の牛川さんの実家のミヤビでやりたいですな。

これは演劇ではないブログ 11《2018.9.22》

1週間の備忘録

―額田大志

9月12日(水)
センター北駅の稽古場で、ダンサーAokid率いるTalkingKidsHi5『BABY BABY,THIS UNBELIEVABLE LOVE!』の稽古。劇中曲のよだまりえ「イルカ」をアレンジしてリハーサル。その後、通しつつ全体の流れを確認。終わって稽古場で缶ビールを飲んで、いつもはちょっとダラダラしたりするのだけど、今日はすぐに帰宅。家で劇中曲「メガトン級LOVE」のトラックを作り、「水曜日のダウンタウン」の録画を見て、寝る。

9月13日(木)
朝一で代々木八幡へ。東京塩麹のMV打ち合わせ。監督、カメラマンと一緒に、実際の撮影場所を見つつ、撮影方法と小道具などを詰める。映像のクリエイションは未だ慣れなくて、本当は演劇と共通するところもあると思うけど、全然別物、のようで難しい。その後、センター北駅に移動して稽古。岡田智代さんがチーズケーキとショコラケーキの差し入れを持って、見学に来てくれた。岡田さんは昨年ご一緒したときも感じたけど、孫を見るかのように(すみません)、見守ってくれる。どんな形であれ、肯定してくれる人が側にいるのは心強い。夜はさいたま芸術劇場にKawai Project『お気に召すまま』を観に行く。来年、アゴラで同作を上演するので、本番直前だけど、どうしても見たかった。見ながら、配役や演出方法などを考える。お気に召すままは、何も配慮せずに上演すると、現在の倫理観ではかなり危なっかしい上演になることが改めてわかった。

9月14日(金)
TalkingKidsHi5『BABY BABY,THIS UNBELIEVABLE LOVE!』初日。ということで、小屋入りして仕込んで場当たりして、あっという間に初日終演。本番中は、自分のパフォーマンスに怖気付いて、80%くらいの気持ちになってしまった(心が折れた)瞬間があり、反省した。トークゲストは中山晃子さんと池澤龍作さん。中山さんとは何度か本番でもご一緒したけど、こうやって話したりする機会は中々なく新鮮。トークは過去最高にピリついた雰囲気だった。これは良い意味です。

9月15日(土)
『BABY BABY,〜』2日目。今日はスペシャルライブ、という趣で、マーライオン、荘子it、テンテンコらも交えたイベント形式。TalkingKidsHi5のよだまりえが、別現場のため不参加なので、Aokid、米澤一平、福原冠、と僕の4人で新たにパフォーマンスを組み直す。お客さんの入りは少なめだったものの、ライブが終わった後には、なんだかやってよかった、と思えるプチ高揚感のようなものがあって、それは高校の文化祭を思い起こすような清々しさで、気持ち良かった。

9月16日(日)
『BABY BABY,〜』最終日。昼公演と夜公演の休憩中に、横浜家系ラーメンを食べる。2ステージを終え、バラして、プチ打ち上げをして、帰宅。だいたい帰るときは、福原冠さんと方向が一緒になるので、毎日演劇の話をして帰った。この日は古典戯曲のオススメを、福原さんが幾つか挙げてくれたので、iPhoneにメモした。メモだけして見返さないときも多々あるので、見返さなければ行けないと思った。

9月17日(月)
朝早く起きようと思うも、本番の疲れで無理だった。1週間ぶりにヌトミック『ワナビーエンド』の稽古。10分くらいのシーンを、5時間かけてじっくりやってみる。クリエイションはスムーズで、出演者の2人、深澤しほと、中澤陽と、かなりのグルーヴを感じる。今作はちゃんとした?、ダイアローグがあって、演劇だね、という話をする。稽古途中に雨が降ってきて、中澤さんに2本目の傘を貸した。夜は同居人の「ふるさと納税」で届いたステーキを焼いた。焼き方をいろいろ調べたけれど、まちまちだったので、検索で3番目くらいに出て来た本格派っぽいサイトを参考にした。そのまま明け方まで作業。

9月18日(火)
昼くらいに起きて、来年の秋に予定している公演の打ち合わせへ。劇場の人と、誰かコラボしたい人はいますか?という話をして、思いつくままに名前を挙げたりして、その身勝手な時間はとてもワクワクした。寝起きで向かったからなのか、しどろもどろになってしまった。その後、自宅でひたすら作業。週末のダンス公演『こんなに知らない貝と皿』の音楽の仕上げ。微調整を重ねる。並行して東京塩麹の新作ジャケットも納品。夜は、近くのオオゼキで買った秋刀魚を焼いた。先月行った小豆島で買って来たポン酢で食べたら美味しかった。そしてまた、作業を再開して、音源を送って、これも書き上げました。週末は、ぜひSCOOLへ。

2018.9.22(sat)-9.24(mon)桑原史香×坂藤加菜『こんなに知らない貝と皿』@三鷹SCOOL
http://scool.jp/event/20180922

なにも起きない毎日、ではないけれど、なんだかささやかな日々、のようなものを過ごしていると、備忘録を見て思った。思い描いていた未来はもっとアバンギャルドなものだったけれど、案外収まるところに収まるのだろうか。

収まってはいけない、と思い、打ち合わせに向かう途中、とりあえず原宿の裏路地を歩いてみて、見慣れないイタリアンなどが目に入って、あぁこういうお店もいいな、と思い、行ってみたいなと思ったけれど、一番記憶に残っているのは、「あっ、こんなところにUFJ銀行あるんだ」、だった。この裏路地の景色を台詞にするとき、きっと自分は「あの、まぁそれで、UFJがあったんですけど」的に、UFJをキーに描いてしまうと思った。本当は、UFJのUも出てこない、イタリアンとかクラブとか、ストリート感、みたいな言葉が溢れてきても良いのに、今の自分に描けるのはもしかしたらUFJ銀行が相場なのかもしれない。そう思うと、ささやかな日常、にはぴったりだけど、もっとアバンギャルドに生きなければと、思って、今日はレディースのシャツを着てみました。

これは演劇ではないブログ 10《2018.9.16》

災害について

―綾門優季

ひらがなでブログを書いていくシリーズの第二弾を本来お届けする予定でしたが、誕生日の9月6日に大地震が起きるという後味の悪い出来事があり、気が変わったので通常状態の綾門でお送りします。

『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』(戯曲)
https://note.mu/ayatoyuuki/n/nbd514fcbeab2

2018年12月、青年団リンク キュイで上演いたしました、『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』の戯曲をnoteで販売します。当日の物販でも売っていなかったので、これが初公開となります。500円です。

北海道胆振東部地震を受け、この戯曲の売上全額を、緊急災害支援基金(Yahoo!基金)に寄付することにしました。

「北海道胆振東部地震の被災地支援について」
http://nuthmique.com/post/177830978003/hokkaido

これは僕のアイデアではない。額田大志さんの先日の物販売上寄付の試みを、恥ずかしげもなく大胆にパクリました。パクリだろうがなんだろうが、やらないよりはやったほうがいいなら、やればいいじゃないか、という気持ちです。フェスティバルの効用のひとつに、お互いがお互いに影響を与える、思考のきっかけとなる種を植え付けられる、ということが挙げられます。家で購入した東京塩麹『リフォーム』のDVDを眺めながら「この方法、すぐにやれるな、やろう。」と思い立ちました。

僕の最近の戯曲は『不眠普及』『TTTTT』『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』と、常に災害について扱ってきました。パンデミック、自爆テロ、大震災、ファシズムの暴走、無差別殺人…。天災も人災もありますが、一貫して関心があるのは「たとえ善行を積み重ねるような生活を続けていたとしても、問答無用で明日にもその生活は壊れるかもしれない」という恐怖とどう戦うか、どう受け入れられるか、ということです。

被災された方の中には、きっと理不尽さを受け止めることが出来なかった方もいるでしょう。宮城や福島に仕事で行くたびに、その理不尽さを未だに考えあぐねている現地の方の話を聞いて、どう受け止めればいいのか、わけがわからない感情になります。自分よりもっと辛い立場に立たされている人が存在するから自分は辛くない、と呪文を唱えるのは無意味です。起きてしまった辛さへの処方箋はありません。「何故このようなことがよりによってここに、わたしに」という降って湧いたような理不尽さは、容易に解消されません。が、元の姿を取り戻す日が早く到来することは、少なくともその理不尽さを緩和させる一助にはなる、そのように考えます。

そして震災を始めとした様々な天災の連続で、心がグッタリしている皆さまへ。それも被災です。そのグッタリ、何も出来ないという絶望感から生じていませんか。500円で、少しだけ解消しませんか。もれなく戯曲もついてきます。僕は『リフォーム』を買ったとき、ちょっと楽になった気がしました。手に余る大規模な支援は出来なくても、今やれることはした、という実感があったからです。

皆さまの安全と、一刻も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

青年団リンク キュイ主宰
綾門優季

これは演劇ではないブログ 09《2018.9.8》

遭遇

―カゲヤマ気象台

先日空を見上げたら火球の流れていくのが見えた。こういう時、間違いなくそれは偶然なのだけど、しかしどこか必然だったかもしれないというような感じがする。もちろんその必然に名前をつけるのは野暮だ。野暮だが、名前をつける遊びをするとしたら、運命だとか、前世の何かだとか。

別に念じて何かが起こるわけではないということは知っていながら、しかし自分の内と外とは完全に切り離された何かとは思っていない。そこにアクセス可能な通路は場合によって存在する。そのことは常に覚えている必要がある。偶然を繰り返し同じタイミングで起こすような方法を、ずっと探しているような気がする。

以前に比べて自分の作品をやるモチベーションが安定してきたように思うのは、作品というものが自分の外部に、砂の城のように構築されるものではない、と分かったからだろう。分かったと言っても一般的にそうだと言うのではなくて、少なくとも自分にとって、作品というのは客観的な物理法則で建つものではなくて、知覚できない次元の影の反映のようなもので、確かに自分を通過しているのだけど未知のもので、しかしそれをやるためにはすごく自分をやらなければならない。自分を成り立たせている何かには、知らないものがたくさんある。それはふいに空を見上げたら火球が流れるみたいなことだったりする。

あるいは、外部とか他者を見ているのはあくまで自分でしかないので、まさにその外部とか他者を含めたありようを作品にしたいと思ったら自分自身を通過するしかない。たとえ知覚できなくても自分というものは少なくとも必然的だ。なにしろ間違いなく生きているのだ、この必然はでかい。

少し前にブライアンイーノがインタビューで最近気になっている音楽はあるかと聞かれて、自分のことをやっていたら他人の音楽なんて聞いてる暇ないという趣旨の返答をしていた。その境地にまで達するのはすごいがきっと自分にはそれは無理で、というのはいわゆるアイディアをインプットをしないといけないとかいうことより、文化に触れながら生きるような生き方しか知らないからだ。演劇でも音楽でも文学でもいいけれど、それらを通過しながら生きるのがあまりに当然にある。飽和気味の情報のなかで、たくさんの記号を獲得する。それはある意味では自分の中に隙間をたくさんつくる行為だ。汲み取れたものと汲み取れなかったものの間に真空地帯のようなものがある。そこには偶然に作用する力学がある。それ自体が生き方であって、これはたとえ自分が作品を作らなかったとしてもやっていることだ。

是枝監督の映画を一本も見たことがないのが意外だと言われて、とりあえず『歩いても 歩いても』を観た。たった10年くらい前の映画のはずなのにまるで違う国の話のように思えた。もしかしたらあのときの「普通の人々」という存在が信じられなくなったのかもしれない。別の日に『女が階段を上る時』を観て、こっちのほうが逆にしっくり観れた。黛敏郎の音楽と仲代達矢の不良シティボーイぶりがかっこよかった。

これは演劇ではないブログ 08《2018.9.6》

ヌトミックのコンサート、開演

―額田大志

演劇の作り方が、徐々にわかってきた。
そんな感覚を覚えたのはここ数ヶ月。

演劇の世界につま先だけ突っ込んでいたつもりが、いつのまにか両足の太ももくらいまで浸かっている気がする。
演劇を生業にしている知り合いや友人も増えた。これは嬉しいし、楽しい。演劇の素晴らしさも知ることができた。

しかし一方で、どうすれば舞台が成立するのか、あるいはしないのか。
どんな風に進めていけば、失敗せずにクリエイションができるのか。
そんなことが、少しずつだけどわかってきた。

創作のストックが増えた、と言えばそうなんだけども、これから先も作り続けていく中で、なんだか自分の作品が、自分の手の届く範囲に収まってしまうのではないか、という危機感がある。
自分はもっと、果たしてこれは何なのか、言葉を尽くしても説明できないような、わからないものが見たい。

そこで企画したのが、ヌトミックのコンサート。
昨日最後のリハーサルを終えたが、これがどう観客に届くのか、、、想像するのが難しい。

戯曲を演奏すること、俳優と音楽家が共に演奏すること、そして数十年前の現代音楽を演奏すること。
演劇と音楽の狭間を往き来する楽曲たちが、何を表象し、どう受け止められるのか、まだ自分は言葉にし辛い。
ただ、これは面白いと思う、という漠然とした確信だけがある。

わからないことを、わからないままに、複雑なことを、複雑なままに届けるのが、アーティストの仕事だ。
まだ自分も不確かな、その愉しさを探る時間は、怖くもあり刺激的で、だからこそ作ることが愛おしいのだと思う。

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フェスティバル「これは演劇ではない」関連イベント
『ヌトミックのコンサート』

2018年9月8日(土)15:00/19:00
全2公演。演奏時間は途中休憩を含み80分を予定。

<出演>
池田若菜
額田大志
深澤しほ
細井美裕

<プログラム>
・額田大志:舞台俳優のためのピアノソナタ(世界初演)
・額田大志:ネバーマインド(世界初演)
・額田大志:何事もチューン
・額田大志:それからの街
・額田大志:SUPERHUMAN
・John Cage:4"33
・Christian Wolff:Sticks
・長井桃子:日本の歌
・池田萠:いちご香るふんわりブッセ/うさぎのまくら クリーム金時
※曲順は未定、なおプログラムは変更の可能性がございます

<会場>
SCOOL
〒181-0013 東京都三鷹市下連雀 3-33-6 三京ユニオンビル 5F
三鷹駅南口・中央通り直進3分、右手にある「おもちゃのふぢや」ビル5階

<チケット>
予約 2,500円
当日 3,000円

予約はこちら
https://ws.formzu.net/fgen/S3086998/

※受付開始・開場|開演30分前
※各回、当日券を開演30分前より販売予定
※全席自由席・到着順のご入場
※未就学児童の入場不可

<スタッフ・クレジット>
宣伝美術|タカラマハヤ
制作|河野遥
協力|みんなのひろば、これは演劇ではない
主催|ヌトミック

<お問い合わせ>
nuthmique@gmail.com (河野)

これは演劇ではないブログ 07《2018.9.1》

『"これは演劇ではない" という呪いの言葉』

―松村翔子

モメラスの松村翔子です。
フェスティバルへの意気込みを記します。

演劇フェスティバル『これは演劇ではない』の誘いを受けたとき、正直私はこのタイトルの強さ、というか硬さに二の足を踏みました。作品を発表するにあたり、随分ハードルが高くなるなと思ったんです。「これは演劇ではない」と言った時に「では演劇とは何ですか」を突きつけられることになるわけですが、ちょっとそれには答えてしまいたくない、聞こえないふりして呑気に演劇やっていたい、という思いがありました。その答えを出すには今の私には早すぎるし、あとたぶん、「シーンの流れなんか知らないもん素朴に演劇やるんだもん」っていう "文脈カマトト" 的な自分をちょっと大事にしまっている部分があったからかと思います。

「あなたにとって演劇とは何ですか」くらいの柔らかさがあれば自分なりに回答を用意するのですが、「これは演劇ではない」の言葉には「これが演劇です」が内包されていて、更にそこには「これ以外は演劇とは呼べません」とでも言うような、頑ななニュアンスがあります。
「本人が "演劇" と言ったら "演劇" なので、それを否定するのはナンセンス」というのが多様性を大事にするゆるっとした今っぽい流れかと思うし、参加してる人達もわりとそういう感じなのかなと思いきや、あれ? 全然違った! ゆるくなかった! もしかして新しい演劇を定義しようとしてるんじゃないかこの人たちは! めっちゃ怖! となりました。 だから今、震えています。

それぞれ、その人の中に何となく定義される「演劇らしさ」というのがあると思うんですけど、それは千差万別で世代やジャンルによって本当にバラバラです。私は欲張りなところがあるので、そのバラバラの視点を全部押さえたいと思ってしまいます。バラバラな全てを一緒に舞台上にあげるのが一番リアリティがあると思っています。だから結果、散漫なものがいつも仕上がるんですがその統一感のなさを私は大事にしています。いつまでも猥雑なままでいようとしているために、「これは演劇ではない」という言葉が訪れたとき、「もっと洗練しなさい」と言われているようで苦しい気持ちになりました。今はもう呪いの言葉のように響いています。

これは完全に、私が勝手にがんじがらめになっているだけですが。

でもやります。
なぜか?
わかりません。
メンツでしょうか。
新しい時代を築いていくであろう演劇人に囲まれたら、また新しい視点を取り込むことできるんじゃないかっていう、下心です。
もうカマトトぶってはいられません。
頑張ります。

これは演劇ではないブログ 06《2018.8.25》

― aokid

現在、バンコクにて篠田千明と新作の制作をしている。
今、バスを待っているのだけども中々来ない。
木曜日に学校についてる劇場で岡田利規さんの新作を観る。四時間にもなる作品で小説を原作に作られたものでした。 そしてまた次の日、クリエイションに入る。
今回作っているのはバンコクに来て6年になる篠田さんがリサーチした超常現象をもとに現地入りした僕の浮かんだアイディアや、また現地の共演してくれる伝統芸能を行うおじいさんとのリハーサルなどを通して作っている。 参加するのはBangkokBiennialという3カ月にわたるフェスティバルで、インディペンデントなところから出発した。 2人の現地出身の作家と移り住んできた外国人の作家の3人から始まったそう。
今回の意図の一つとしては東南アジアの中でアーティストが色んなところから集まるハブとしても機能しているバンコクと、もう一方のローカルのアーティスト達との交流も図りたいということもあるという。

帰りのTAXIの中でもこの"これは演劇ではない"フェスについての話を篠田さんとしたり、また何年も前に彼女が快快やままごとなどが参加したフェスの作った雑誌を持って来てくれるという。

日本で演劇を観ることが増えたけど未だにわからないことだらけで、またなぜかずっと続けて見ているが、今年はもっと音楽聴きに行ったりまだ見たことのないジャンルなんかも観に行きたいと思っていてまだあんまり出来ていないのだけど。
しかし今回、こういったフェスティバルに関わることになって自分なりにあげれるアイディアを出していこうと思う。

本番前なのでバタバタしてしまって書きたいことが散らばってしまったり、終わり切ってもないのでレポート調にもなれず。
ただこのバンコクで自主的にアーティストが集まって現状をなんとかしようと動いたことや、そこに集まったたとえば篠田さんが言っていたように現地で出来たたくさんの友人たちと一緒に同時に何か出来るかもしれないチャンス、ということを状況も違う中でそれでも何か頭の片隅に置いておきたいな。

Tiger,Tiger
2018.8/23〜25

これは演劇ではないブログ 05《2018.8.18》

語の反響(演劇論の序)

―村社祐太朗

 この新盆に、実家には親(ちか)しいいくらかの親戚が集まった。わたしは車で15分のところにあるくら寿司に前日の夜のうちに電話を入れ、計10人前の寿司を注文した。人気のないものばかりが選り残らないように、たまごとか数を多くは必要としないネタの含まれるセットは「2人前」と量を抑え、末端まで食べがいのある‘まぐろづくし’のような高価なセットをこそ「4人前」などと多めに注文した。これは親戚がいくらか介する場に合わせてくら寿司を注文する手練れに、自身が相成っていることの証左でもあった。

 とこの前置きはさほど重要ではない。ただ、これからいくらか不用意に報告する祖母の耳の聞こえの悪さについて、がやがやと騒がしいこの宴会がひとつ祖母にとって不利な環境だったということを、少し鮮やかに想像してもらえれば十分である。祖母はここ数年で急に耳を悪くした。以前から良性のしこりが左耳の中にできて病院に通っていたが、数年前に医者に手術による切除を提案された頃からまた極端に聞こえが悪くなった。それまではじりじり少しずつ耳鳴りがひどくなるといったような話をしていたが、それが何かの閾値を超えたらしく、その耳鳴りをいつ頃からか「滝の音」と表現するようになった。また手術は希望から行わないことにして、代わり、自分は耳が悪いということをいつしか受け入れるようになっていた。

 わたしは近頃この、生まれてまだ日の短い祖母の耳の〈聞こえの悪さ〉とよく向き合うことがある。というのも祖母にとっても未だ異物に変わりない〈聞こえの悪さ〉は、祖母が耳が悪くなる以前に実践していた人の話の聞き方、言葉の端々への気の巡らせ方をいまも同じようにし通そうとするのを遮るようにして、顕わになるからである。少し突飛な表現ではあるが、このとき〈聞こえの悪さ〉は、ある空間のようにわたしに意識される。祖母は聞かなくなった(聞こえなくなった)のではなく、〈聞こえの悪さ〉の中でなんとか聞こうとしているように感じるからだ。そしてまた〈聞こえの悪さ〉の中では、もともと対面する人の言葉や身ぶりがもっていた〈聞こえ〉がよもや歪に“反響”して、とんでもない〈聞こえ〉として祖母に受け取られるようなことがあるからだ。まさに「悪さ(=いたずら)」が起きる場所のようにも思える。ここでひとつ好例を挙げる。

 宴会が一段落して各々が家内で一泊の支度をしていたころ、一人でいる祖母の部屋の脇を通り過ぎる際にわたしが「(徒歩30 秒ほどにある)スーパーに行くけど何かある?」と聞いた。祖母が順当に「今行ってきたところだよ」と笑ったので、わたしも小さく笑い返して外に出た。騒がしい空間が退いたあとでは円滑に話ができたと思った矢先、スーパーから帰ってくると一騒動起きていた。わたしが家を出た直後に祖母の目覚ましが誤作動してジリジリ鳴ったらしい。そこで祖母は何を思ったかそれが目覚ましの音だとは思わず、わたしが祖母の聞こえの悪さをからかって「これがきこえるか」と何か異様な音をかき鳴らしているものだと思ったというのだ。聞くと誰もいないフロアで「聞こえるよ」と、仮想する身を潜めたわたしに向けて何度もしたり顔をして言い放ったらしいから良く出来ている。こんな挿話を持ち出すと、普段のわたしの行いさえ疑われそうだが、もちろん以前に一度でもこんなかたちで祖母の耳をからかったことなどない。

 これはまさに〈聞こえ〉から“未遂のいたずら”が変奏されたという意味で、〈聞こえの悪さ〉と(パラフレーズでもあるが)言える出来事だった。ただ一点これを演劇論として真剣に書いているがために強調すると、ここで〈聞こえ〉を持する語として示したいのは目覚ましのジリジリではなく、わたしが口にした「スーパーに行くけど何かある?」や、小さな笑い返しの方である。この2つの言動が本来持っていたおよそ「文字通り」の〈聞こえ〉が、祖母の〈聞こえの悪さ〉の中で歪に反響し、例えば「いたずらの前触れ」や「その先が想定されている何らかのポーズ」といった〈聞こえ〉として受け取られてしまったのだろう。またもちろんもう一歩踏み込むと「あえて真面目にやりとりすることでその後のいたずらの質を高める」という〈聞こえ〉になっていた可能性もある。そしてこの三つ目の〈聞こえ〉を想像した時に、では元々の言動が持していたとされる「文字通り」という〈聞こえ〉は、この「あえて真面目に…」と実際どんな違いがあるのだろうかと疑問が湧く。つまり言い換えれば、仮に〈聞こえの悪さ〉という空間を挟まずに「スーパーに行くけど何かある?」が交わされるのであれば、「文字通り」と「あえて真面目に…」は確実に峻別できるはず、という保障はどこにあるのだろうか。

 上記の「言動が本来持っていた」という箇所に下線を引いたのは、この言動に付帯する〈聞こえ〉の所在に疑義を呈したいからである。「本来持っていた」とあえて書いたが、これはわたしが信用できるような説明ではない。言動には確かに想定される〈聞こえ〉が伴い、それがおよそ他者への伝播をうまくこなすからコミュニケーションがまかり通るわけだが、けれど〈聞こえ〉は恐らくもっと未開な、芳醇なものを携えているのではないか。そしてそれは物理的に聞こえに難がある、というこの祖母の事例にうまく身を潜めているようで、実はそうではないのではないかとわたしは考える。つまり耳が悪いことがこの〈聞こえの悪さ(=いたずら)〉が起こった唯一の原因ではなく、他のいくつかの要素がもみ合って、〈聞こえ〉がもともと持している未開の一画が、ただ余分に顕わになったのではないかと。なにかその大きな図体が、単に身を潜めるポーズを演じていただけではないかと。

 場を宴会の最中に戻し、もうひとつ例を挙げて演劇論の序としたい。義理の叔父はモトクロスが趣味で、年に数回時間耐久のレースに臨んでいる。この夏この猛暑にも5時間耐久のレースに参戦したらしく、その話を楽しげにしていた。叔母が追って「なんか点滴みたいな管が家にあってびっくりした」と言ったのが皆気になった。話をきくとそれは夏場のレースに使用する水筒で、運転しながら水分を補給できるように口元まで管を延ばして身につけるものらしい。そしてこの「点滴みたい」という表現が皆にうけていたのに乗じてわたしは、「入院しながら運転している、みたいなことか」と言った。恐縮ながらこれがまたうけたわけだが、重要なのは祖母もこれをしっかり聞き分け、皆と一緒に笑っていたという点である。言ってみればこの冗談は少し歪なかたちをしていた。「入院している」という表現は、笑いに欠かせない精度の一端を担う“的を得る”のとは逆に、一見「点滴みたいな管」を形式的に膨らませ過ぎたことで的を外してしまっているようにも思える。ただ状況は少し複雑で、この宴会の場が、去年の末に他界した祖父を迎える新盆にあったということがこの冗談の成り立ちに影響していたといえる。というのもここにいた面々は、祖父が入院中にその「管」を身に這わせていたことを見て知っていたからだ。つまり「入院」と「管」はもちろん元々繋がりがあるが、この団欒においてはその繋がりが一層強固だった。このことが冗談をぎりぎりで成立させていたといえる。

 結びになるが、この2つ目の事例において〈聞こえの悪さ〉の中に入力された〈聞こえ〉はある程度想定どおりに反響したという点について、少し緩慢に思考したい。上記における「入院」という言葉の突飛さは、耳の悪さに不利に働くものではあったように思う。しかし結果的に〈聞こえ〉は、「入院」と「管」が強く結びつく状況に下支えされて補完されてしまったように思う。ここでひとつ思うのは、入力された(と想像される)〈聞こえ〉と、実際に祖母が受け取った〈聞こえ〉は、そのシルエットさえも、似ているが別のものではないかということだ。欠損と補填という想像できる限りでは2つの処置が、〈聞こえ〉を形作る別々の要素からなされたように思うのだ。そしてこのどちらをも〈聞こえの悪さ〉の中で起きた“反響”と、名付けてみてこの序を閉じることとしたい。自他のどちらにも属さない場所で起こる語の反響の鏡面として、現在の(会話の)文脈と、過去の(視覚)経験を束ねてみたところで。

これは演劇ではないブログ 04《2018.8.11》

 ― 山縣太一

これは演劇ではないという企画に誘われて参加させていただきます。オフィスマウンテンというカンパニーを夫婦でやっております。山縣太一です。若い子達は知らないでしょうがチェルフィッチュというカンパニーのメンバーでもあります。今は俳優の権利を訴えて干されていますが(爆)。この企画に参加するにあたっていろいろ考えました。若い子達の企画におじさんが参加していいものかどうか?知り合いの方にも参加が決まってからですが、おじさんは参加しなくていいんじゃないと言われました。今この瞬間もおじさんだから参加しない方がよかったのかな?と様々な思いが去来したりウトウトしたりしています。でも表現活動をしている人間なら10年くらいの年の差はあって無いようなものです。僕も若い頃は敬語なんて使えなくてかなり本気で怒られた事が数えきれませんや。つい2カ月前にも。でも尊敬できなきゃこの世界は敬語使わなくていいと思いますよ。モメラスの松村さんは6歳僕より年下だけど尊敬してます。敬語は使わないけど。だからみんな僕にタメ語でいいよ。話変わるけど演劇のショーケースとか最近あんま無いよねー。ダンスはあるけど。なんかこの企画を考えた子達は以前アゴラでやった切れなかった14歳?みたいな企画?ごめんなさい。正確に思いだせない。観た記憶はあるけど内容も思いだせない。神里がイースタンユースの話をしていたかもしれないくらいしか思いだせない。思いだそうとすると身体が熱くなってくるからやめとく。水分補給。僕はアゴラだったらかなり前にやったニセS高原から?かな?タイトル違うかも。が面白かったな。同じ題材を4団体とかでやるやつ。ポツドールとか三条会が面白かった。多分五反田団も出てた。違うかも。あとひとつは思いだせない。思いだそうとすると身体が冷たくなってくるからやめとく。ビール補給。昔話とか杵柄とかはどうでもいいよね。それこそおじさん臭いですよ。マラソンが趣味だったんですが肉体を酷使してきたので今では1分も走れません。立ち上がる際にも声が自然に出てしまいます。普段はできるだけ疲れないように無表情で生活するように心がけております。オールで遊ぶなんて考えられません。気づけば愚痴が口から垂れ流し。おじさん成分源泉のかけ流し。

これは演劇ではないブログ 03《2018.8.4》

『失敗した演出』

―額田大志

昔、とある販売店に勤務していたとき、アルバイトを指導する機会がありました。

具体的には「接客マナーの向上」。対お客様に、気持ちよく買い物をしてもらうためのトレーニング、とでも言えるでしょうか。

接客業に従事していた方であれば、伝わるかと思いますが、こういった場合に使われる表現は「お客様を思って」「もっと気持ちを込めて」など、非常に抽象的な指導(演出)ばかりです。

現代口語演劇に影響を受けた身としては、この状況に黙ってはいられません。

例えばお客様への謝罪は「腰の角度を45度にすると、より申し訳なさが伝わると思う」あるいは「お辞儀を戻すタイミングは、+3秒待った方が申し訳なさそうだよ」といった指導(演出)を続けていました。

しかし、この演出、、、というか指導は全く響かず。退職するまで根気よく続けましたが、失敗に終わりました。

僕としては、こんなにも接客業に応用できるメソッドがあるのに、なぜみんな取り入れないんだ!くらいの憤りを感じていました。演劇ってこんなに面白いのに、と伝えるチャンスを逃したとも言えます。 (今考えるとヤル気のない社員に見えたのかもしれませんが)

ちなみに最近引越したこともあって、NHKの集金さんが訪問してきました。この時にも、接客を受けながら似たようなことを考えてしまいました。

なんとも性格の悪そうなブログになってしまいましたが、演劇の面白さがより多くの人に伝われば、と、率直に思っています。フェスティバルへのご来場、心よりお待ちしています。

 ヌトミック 主宰
 額田大志

これは演劇ではないブログ 02《2018.7.28》

とかげくんとぼくとなつやすみ

―綾門優季

きょうは、みんなにぼくのともだちをしょうかいします。 とかげくんです。


(綾門優季 作『フェスティバルの記者会見』 会場:山吹ファクトリー 撮影:綾門優季)

とかげくんがぼくのいえをたずねてきたのはことしのはるのことでした。ともだちのいないぼくはそれまでいえのはしらやすいはんきにはなしかけていましたが、いえのはしらやすいはんきはただしずかにしんみりときくばかりで、ちっともしゃべってくれません。あいづちさえうってくれません。でも、とかげくんはちゃんとしたいしをもってぼくのこえにこたえてくれます。ぷるぷるふるえているときはわかりにくいですがかんどうにうちふるえているときです。とかげくんがぼくのいえにきてからは、きがついたらずっととかげくんとはなしこんでいるひびです。
(これはないしょですがとかげくんのこえはぼくにだけきこえているのです)

とかげくんとぼくがはなすことをぼくは「えんげき」とよんでいます。「かんきゃく」はいえのはしらやすいはんきです。ほぼまいにち「じょうえん」がぼくのべっどのうえでおこなわれます。「すてーじ」をかさねるごとに「えんぎ」にますますみがきがかかっています。

こないだはきしゃかいけんというどきどきする「しゅつえん」があったのでいっしょに「ぶたい」にあがってもらいました。とかげくんの「ねつえん」にぼくもゆうきづけられたおかげで、ゆったりと「すてーじ」にいられたようなきがします。

でもとかげくんが「いえにいたい、いえにいたい」とだだをこねるので、ぼくはげつようびにとやまけんのとがにきてから、ひさしぶりに「えんげき」の「じょうえん」をべっどのうえですることはできなくなってしまいました。だからすこしさみしいです。ぼくはひびを「かんきゃく」のじょうたいでかちこちにかたまったまますごしています。おもしろい「じょうえん」をみるとぼくもはやくいえにかえって「じょうえん」がしたい!とむずむずします。それはとてもがまんすることのできないむずむずです。でもこうでもしないとぼくが「かんきゃく」のままでいることはないからそれはそれでいいのかもしれません。「かんきゃく」だけしかかんがえないことがあります。

たくさん「じょうえん」をみましたが、とんでひにいるなつのむしってこういうことかあ。というかんじではちすももさんの「えんしゅつ」した『おかしたもの』がとてもおもしろかったです。そとだったのでとにかくあかるいところにいこうとするむしが「すてーじ」にたくさんとびこんで、そしてたくさんしにました。しんでもしんでもむしがやってきました。むしろふえていくようでした。そしてたくさんたくさんしにました。「ねつえん」でした。それが『おかしたもの』の「かんきゃく」につたえることばとつながって、あたまのなかがばちばちするかんかくがありました。むしもあかりにとびこんでばちばちしていましたが、そのばちばちではないです。


(三好十郎作 蜂巣もも演出『冒した者』 会場:富山県利賀芸術公園 岩舞台 撮影:津田壮章)

ばすけをするようなおはなしじゃなかったきがするけどなぜかずっとばすけをしていて、とくにくしおかずきさんがそういういみじゃないせりふをまるでばすけのことのようにしれっとうまくいったかんじのするところは「『おかしたもの』はばすけだったのか!しらなかった!」ととてもおどろきました。もういちど『おかしたもの』をよみなおしてもあたまのなかでばすけっとぼーるをつくおとがずっとこだまして「これがえんしゅつのちからだ!」とぷるぷるふるえました。だん。だん。だん。だん。

ぼくはすごいばすけのしあいをみた!とこうふんしてこうひょうかいにいきました。いろんなむずかしいことばがあっちからもこっちからもでましたが、とくにおりざさんからは「えんしゅつ」のせいぎょについてのおはなしがあり、いちばんむずかしかったです。はちすさんたちはばすけのしあいをしていて、ばすけのしあいをせいぎょするってどういうことなのかつかめるようでつかめなかったからです。「かんきゃく」のところにぼーるがとんでいったり、もりにぼーるがとんでいったり、たしかにせいぎょできているとはとてもいえないけれど、ぼくはさんどのめしよりも「すてーじ」でおこるあくしでんとがすきで、しかもかくしんはんてきなあくしでんとだからあれはあれでよいとおもっていたのでした。ばすけも「えんぎ」だとおもったし、ばすけのごーるがきまったしゅんかんは「ねつえん」だとぷるぷるふるえたんだけど、なにが「えんぎ」でどこまでが「えんしゅつ」なのか、「ぎきょく」をたいせつにするってどういうことなのか、んぎゃーとなりました。ことばのいみはいっぱいあったほうがよくて、「えんしゅつ」しだいでそれこそあくしでんとみたいにあたらしいいみがいくらでもうみだされるのに、「えんしゅつ」はびしっとかためないといけない?「ぎきょく」はかためすぎるといみがまずしくなるからいけないのに?「えんしゅつ」をちゃんととじることで「ぎきょく」がはじめてひらく?「ぎきょく」と「えんしゅつ」はことばのとびらのあけしめ?それとも「えんしゅつ」はことばのとびらにとってのかんぬき?「ぎきょく」はむすうのとびら?「えんしゅつ」のことをかんがえていたのに「ぎきょく」のことまでいつのまにかぐるぐるかんがえこんでしまっていて、

わからぬ!!!

わーってなってねました。
むずかしいことをかんがえるとねむくなります。
そういうときはすぐねることにしています。
おきたらすっきりわかるようになることもあるから。

きょうはおひるごはんにでたすいかぜりーがおいしかったのでとてもよいひです。ぜんりょくでばすけしているひとたちのあせとすいかぜりーが、ぼくのなつへのとびらをあけてくれました。

あやとゆうき

これは演劇ではないブログ 01《2018.7.21》

これは記者会見のレビューではない

―カゲヤマ気象台

これは「これは演劇ではないブログ」と言って、週に一回、参加アーティストが交代で文章を載せる。フェスティバルに対する意気込みのようなものもあれば、ただの雑感もあると思います。いずれにせよ、我々のそれぞれの考えていることはこれからいろんな手段で発信していきたい。

第一弾を私、カゲヤマ気象台が担当することになったのだけど、企画メンバー(綾門優季、額田大志、カゲヤマ)の中では私がいちばん最後に参加が決まった。いわばドラマーみたいなもので、だからこれはドラマーが最初に何か書いている、というようなことだな、と思った。現実ではどうだか知らないけど伝説ではドラマーはいつも一番最後に加入する。

よろしくお願いします。

ところで先日記者会見があって、企画メンバーが主な登壇者となり(司会Aokid)、このフェスティバルについて、フェスティバルのタイトルについて、各自の作品について、などをしゃべった。後日レビューが出る予定なので、しゃべられたことがどういうことだったのかはそれを参照していただけたらと思うのだけど、ここでは「これは演劇ではない」という言葉についての、個人的な所感を、記者会見とは違う語り方で書く。

(もちろん企画メンバーとしての共通の声明はステイトメントという形で出しているので、これはあくまで、ごく個人的に感じていること、ということだ)


▲「フェスティバルの記者会見」の様子 (Photo:kiyoshi hashimoto)

私だって生まれてすぐ演劇を把握したわけではない。

私は生まれてからこれまで生きてきて、その間に確かに演劇とも遭遇したが、しかしある文化の中で、人と話し、テレビを見、本や映画に触れ、音楽を聴いてきた。それらを通過してきた体というのが確かにあって、演劇はここからいつも再び始まる。つまり、これはひとつの体の問題だ。体はいびつであったり、矛盾を抱えていたりするし、自然もあれば無理もある。恥ずかしいものやダサいものもある。体操すれば気持ちよかったりもするが基本的にだるかったりもする。しばしば感情的であり、悩みや迷いもあり、見栄も張り、人生と呼びたくなるようなやつがある。こういうことぜんたい含めて、「体だな」という感じがある。

これは必ずしも個人的なことだけではない。我々の体は文化や、社会や、他者や、それらをつなぐ想像力を絶対的に含めてしまっている。これはそういう意味でのぜんたいの問題だ。むしろ個人の体というものが無視されて演劇が社会をやるようなことがあればそんな信用できないことはない、ここで言う体というのは俳優の身体の話ではなく、それも含めたこれに関わっている人間たちの体のことだ。私はこういった体をもって、きっとこれが演劇に違いない、これこそが、演劇と呼ばれることが、信じられるものだ。という信念をもち、その信念のうえで、脚本を書いたり、俳優たちとだらだらしゃべったりして日々を過ごしている。

しかし、残念ながら私たちの文化は、(東京の)文化は、今のところ、この体を見るために最適の場所であるとは、到底言えないだろう。

私たちの体は、ある快適な劇場の空気のなかで、ひとつ次元を落とされ、陰影を失い、そのうえで表面に浮いて出てきた記号のようなもので判断され、比較され、これといぜん観た○○とは似ているね、であるとか、これは○○だね、とかこれは○○でないね、とか、ここの形はうまくないね、ここはわりあいうまいね、だとか言われがちである。(これはつまり美食家ということなのだけど、美食家はいつの時代も存在する。美食家が滅びろと言うつもりはない。私だって美食家的にふるまうこともある。しかし味覚は更新される。まだ名付けられていない味覚、記号化されていない味のようなものが、世には可能性として存在するはずだと思う。そこには豊かさがあるし、少なくない人に求められているものがあるはずだと思う。)

あらゆる演劇は、演劇らしきもの、曖昧で不明瞭な「演劇らしきもの」に回収されて、その範囲内でばかり語られがちだ。ここには明確にずれがある。この差がうまることはないだろう。しかし「演劇らしきもの」の範囲の中に、私はもっと、今言った体であるとか、生きていること自体が、含まれて欲しいと思う。ほんとうに豊かなもの、ほんとうに今必要なものが、もっと有効であってほしい。豊かなものが、強い言葉とか、大きな声とか、刺激的な色とかなしに、遠くまで、それを必要としている人にまで届くようなことというのを信じたい、と思っている。

いやむしろそのことが、どうしようもないこの体のようなものが、「演劇らしきもの」の中に存在が認められれば、それはいっそう大きな意味のある文化となるだろう。私はそういう、大きな変化を為しうることこそが私たちの(東京の)文化の持っている力だと思うし、それを信じて、少しでも何か意味があることを期待して、ひとつの呪文のように、「これは演劇ではない」とつぶやいてみたい。

何か少しは変わるものもあるだろう。

私はこの言葉に似た感触が過去にあったなと思ってしばらく考えたんだけど、むかし病院の待合室で読んだ、背表紙の日に焼けたマンガにあった「ただのケンカしようぜ」て言葉だったような気がする。

違うかもしれない。

(状況がわかりにくいと言うならいっそトーナメントにしてみました、っていう)